過去の事
昭和52年4月、4年間に亘る東葛飾地方出張所での管理行政の仕事から解放されて,懐かしい教育現場に帰ることになった。しかし、自分自身管内の人事に携わっていたので,当時の小菅傅地方出張所長には私の人事は最後でよいですと申し上げていた。そして、最後…
学校現場を離れて行政の仕事に従事したことは、今まで生徒と接触してきた感覚から違和感を覚えることも多かった。でも行政上の視察である学校訪問は各学校の施設整備状況と学校経営の状態を把握して、その改善を計るというもので,東葛飾地方の教育実態とと…
子どもの教育は負荷を掛けることだ。負荷と言ってもその子どもに応じた負荷であらねばならないことは勿論である。それに家庭それぞれで育てられ方、人間としての生き方も違った養育をされてきている。それを生かして尚より高く深い人間になって欲しいと思え…
我孫子中学校を去る時がきた。根本正夫校長(当時我孫子第一小学校校長)、山崎森蔵 校長(当時我孫子第四小学校校長)の推薦もあり,校長試験に合格して,昭和44年流山 市立東部中学校へ赴任したのである。そう言えば,東葛飾地方出張所での管理職試験の 面接の…
私は、教師集団の組織化こそ学校を変革し得る基だと思いそれに取り組んできた。いろいろと抵抗もあったが、渡辺さん始め樽さん,稲生さん、豊島さんらの支持もあり、次第に軌道に乗ってきた。生徒の活動を助長し、生徒集団の組織化と生徒自身による学校生活づ…
我孫子中学校へ赴任してみて,私が見た我孫子中学校は数年前に火災に遭っていて全焼した後、建て替えられた半円形型の校舎で校庭に平行して廊下が広がっており、三階までの廊下に生徒が群がり校庭を見下ろしていた。校庭には、休み時間というのに一人の生徒も…
野田市立川間中学校への道は農村への道であった。川間駅から歩いた20分の道程は、久し振りの現場復帰で,すがすがしく又活力の湧き上がるひとときであった。校長は黒川忠氏で経営の大筋は見通していて、計画から実践まで具体的なことは任せて下さった。そうな…
教員組合の組合員が教育実践の力をつけるには、教育研究の場を確保しなければと当 時教育活動の拠点として、東葛の教師たちが資金を拠出して建設した財団法人東葛教育 会館が柏市の柏駅西口にあった。その会館の事業の一つに教育研究所があり、その企画 の中…
風早中学校での思い出は,出会った同僚との魂の揺さぶりだ。教育の現場で教育を語り生徒の行動を話し合うだけでなく,人生のあり方を話合う場と時を作ったことを強烈に思い出す。その仲間が今井義武であり、岡田博だ。今井は多趣味で、人間味があり,私とはウ…
子どもとの学校生活の中で、相変わらず私は、子どもらに注意をされ、意見も言われた。それは、彼等を私と同じ人間として思うからだ。悦子、美千代、美智子などの注意は何時もだった。乱暴者としていわれていた高橋利昌も、よく私に食いついてきた。生きること…
教師の中には、私以上に教育実践の中で悩みを持つ人もいた。教育への情熱を傾けて止まない人もいた。東葛5000人の教師の中で様々な人に出会った。当時の組合には管理職も入っていて,安井新治校長や篠宮善一校長それに関根明信校長などと共に行動できたことは,…
鎌ヶ谷中学校は、当時は農村といわれる地区で、農家の事情もあり、長期欠席の生徒も多く私が学級を受け持っていた時は、その在籍に三~四名の長期欠席者がいた。学級を受け持って暫くして、この長欠者の所を訪問しようと思い、生徒に聞くと生徒は{ああ、その…
相変わらず、私は、生徒たちに注意や意見を言われることが多かった。私はそれを喜んで聞き意見を言った。それは彼等と私は同じ人間であり、同じに真剣に生きて行こうとする仲間であるのだ。悦子・美千代・美智子などの注意はいつもだった。乱暴者と言われた…
昭和29年当時日本教職員組合が、日本の教育を再建し新たな教育活動を推進する手段として、教育実践発表の場を設け各県の代表を集めて全国教育研究集会を実施していた。東葛南部地区でも、教育実践に関して、研修部会を設け活動していた。当時浦安、行徳、南行…
当時の鎌ヶ谷村は、農家が多く、農村地区であり、特に梨の名産地でもあって生活が農業主体に行われていた。そのためか、長期欠席の生徒も多く、私か゛学級を受け持った時は、その学級に4名程の長欠生徒がいた。4月当初にその生徒の所を訪問しようと、クラスの生徒…
深山勇とは、卒業後の思い出がある。卒業から数年経ったある日、彼から電話がかかって来てお邪魔したいと言う.家に来て早々に「おれ、北海道の彼女と結婚するんだ。お祝いに品物をくれないか」と言う。「何が欲しいんだ」「生活用品でいいんだ」という。野田…
私は、この生徒のためにも彼等を差別する教育,彼等を排除する学校集団があってはならないと思い,機会ある毎に会議などで発言した.特に知能検査でその子たちをクラス分けしたと公言した教頭には,知能検査が万能なのか,知能だけで教育に差別があって良いのかと…
Kは同級生との争いはしょっちゅうだった。ある日、喧嘩の果てに教室の窓ガラスを蹴破って飛び出した。私は家まで追いかけた.三キロはあっただろうか。彼の後を追って彼の家に入ったところ、彼は母親といた。「どうした」と言って近づくと彼は、台所から包丁…
追い出されたということなのか。何か割り切れぬ気持ちはあったが,新たなる道への期待もあって鎌ヶ谷なる土地に思いをはせた。鎌ヶ谷中学校を見ようと4月の年度始めの休業日に根本隆氏を誘って自転車で住んでいた福田から松戸を通って鎌ヶ谷へ行った。東武野田…
教師として福田中学校へ勤務していた年の暮れに旧制の東京高等学校を休学していた私に担任の松浦嘉一教授から封書がきた。教育改革で教育制度が変わる。現在の官立大学が新生大学になり旧制の高等学校は廃止になることになった。来年は今の高校に来て卒業し新…
日本の国は、戦争に負け、アメリカ・イギリス・ロシヤ・中国等の連合軍の統治することとなった。その統治者としてアメリカのマッカーサー将軍が来日し,占領軍の間接統治が行われた。軍国主義国家であった日本に対して政治改革や経済改革及び教育改革を要請し実…
慌ただしく青い鳥児童劇団解散の事務を終え、指定されていた千葉県東葛飾郡福田村立福田中学校に行くことになった。 吉田校長先生の指示により昭和23年5月30日の夕方東京から柏を経て東武野田線に乗り案内の通り梅郷駅におりた。丁度太陽が姿を没しあたりが夕…
児童劇団の活動は、思うようにいかなかった。稽古の場所の確保も侭ならず、小学校の空き部屋を借りたりしていた。劇団の児童たちも、平日は学校に登校しているのだから、稽古となれば、夜間か日曜日に限定される。それにスター的な児童ともなると学校のクラブ活…
太平洋戦争が昭和20年8月15日にラジオからの天皇の放送で始めて戦争が終わったことを知った。戦争が終わったという安堵感と、これから日本はどうなっていくんだろうかという不安が心に残った。時が経つに従って、その不安は増大していった。空襲はなくなり死…
東京の中心地は3月10日の大空襲で一面焼け野原になってしまった。 その当時私は、中学4年生で,相変わらず日本無線という軍需工場に行っていた。 行っていたといっても,殆ど仕事もなく、工場の外の陽のたまり場で数人の友達とこれ からの自分たちの生き方を…
中島飛行機の工場を去って新たに学徒動員で行くことになった日本無線株式会社は 中央線の吉祥寺で降りて25分余を歩く三鷹市の新川にあった。前の中島飛行機工場と違って工場の周りは櫟林に囲まれた静かな環境の中にあった。仕事も私が担当したのは、中型無線…
学徒動員は,中学校の学舎を離れて、直接戦争の兵器を作る工場に毎日出勤したのである。それは、一般の工場の工員と同じ勤務であった。朝、工場へ出勤すると,私は飛行機のエンジンを製作する工場に急いだ。点呼が終わると,今日の仕事の段取りが有り、仕事…
小学校を卒業して新しい中学校に入学した。その中学校は自分の家から歩いて行けた。新しい中学校というのは、新設の中学校で、平屋立ての木の香の匂う校舎が雑木林の中に並んでいた。そこで私は4年間を過ごした。と言ってもその4年間は、唯勉強をする4年間 で…
わたしの入った小学校は東京の郊外の静かな住宅地にあった入学した時の私は,内気で人見知りをする子どもであった.それで、学校の行き帰りの道で上級性にいじめられることもあった。でも,休まず通学していたのは,何か学校におもしろいことがあったのであろう…
「私が小学生の五年生と言えば、昭和12年に起きた蘆溝橋事件後日本が中国との戦いに本格的にのめり込んでいき、ついには日米開戦となる昭和16年の2年前の昭和14年の頃である。その頃日本の社会は、日中戦争に加えて、米・英国との摩擦も多く、忍び寄る大戦の恐…