教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出 23

教員組合の組合員が教育実践の力をつけるには、教育研究の場を確保しなければと当 時教育活動の拠点として、東葛の教師たちが資金を拠出して建設した財団法人東葛教育 会館が柏市柏駅西口にあった。その会館の事業の一つに教育研究所があり、その企画 の中に教師の研修事業が位置づけられていた。研究所を通して教育研修を進めようと赤 澤敏雄さんに中心になって頂き、様々な教育研究がなされた。書記次長であった若王子 博夫氏の努力も忘れられない。

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遠い思い出 22

風早中学校での思い出は,出会った同僚との魂の揺さぶりだ。教育の現場で教育を語り生徒の行動を話し合うだけでなく,人生のあり方を話合う場と時を作ったことを強烈に思い出す。その仲間が今井義武であり、岡田博だ。今井は多趣味で、人間味があり,私とはウマがあった。組織した読書会で川端康成の小説を読み合ったり,長野の諏訪まで行って

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遠い思い出 21

子どもとの学校生活の中で、相変わらず私は、子どもらに注意をされ、意見も言われた。それは、彼等を私と同じ人間として思うからだ。悦子、美千代、美智子などの注意は何時もだった。乱暴者としていわれていた高橋利昌も、よく私に食いついてきた。生きることに真剣さがある利昌と言い合った。彼は、卒業して間もなく死んだ。喧嘩から刺されたのだ。葬儀に出て、泣いた。中学校の2年半学校に来ていても、口をきかなかった秋山利郎が3年の後半ホームルームで前に出て司会をし発言した。私の目から涙がしたたり落ちた。飯塚勝将達学級のみんなの努力だ。それが稔ったのだ。3年間受け持った彼等は卒業し去って行った。卒業しても一緒に学習しようと集まって始めた「だるま会」は文集を出しつつ続けていった。「やまびこ学校」にも等しい生活運動が続けられていったのである。

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遠い思い出 20

教師の中には、私以上に教育実践の中で悩みを持つ人もいた。教育への情熱を傾けて止まない人もいた。東葛5000人の教師の中で様々な人に出会った。当時の組合には管理職も入っていて,安井新治校長や篠宮善一校長それに関根明信校長などと共に行動できたことは,様々な面で私を高めてくれた。又民間の労働組合との連携の地区労働組合の連合体(地区労)があって,柏、野田、流山、我孫子等の民間会社の労働者と交流もあり,若い労働者の熱意と気概に教わることも多かった。 

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遠い思い出 19

鎌ヶ谷中学校は、当時は農村といわれる地区で、農家の事情もあり、長期欠席の生徒も多く私が学級を受け持っていた時は、その在籍に三~四名の長期欠席者がいた。学級を受け持って暫くして、この長欠者の所を訪問しようと思い、生徒に聞くと生徒は{ああ、その子なら毎日学校の前を通って仕事に行っているよ」と言う。彼等は一人前の仕事人なのだ。社会人なのだ。そのこともあってか,地域での中学校の評判はよくない。だからか小学校を卒業すると,有識者の子は船橋の公立中学校へ越境入学を

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遠い思い出18

相変わらず、私は、生徒たちに注意や意見を言われることが多かった。私はそれを喜んで聞き意見を言った。それは彼等と私は同じ人間であり、同じに真剣に生きて行こうとする仲間であるのだ。悦子・美千代・美智子などの注意はいつもだった。乱暴者と言われた高橋利昌は卒業して間もなく事故で死んだ。喧嘩から相手にナイフで刺されたのだ。よい男だった。私の言うことは、

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遠い思い出 17

昭和29年当時日本教職員組合が、日本の教育を再建し新たな教育活動を推進する手段として、教育実践発表の場を設け各県の代表を集めて全国教育研究集会を実施していた。東葛南部地区でも、教育実践に関して、研修部会を設け活動していた。当時浦安、行徳、南行徳地区の中学校生徒の実態は、長期欠席生徒の数が多く、大きな教育課題となっていた。(特に生徒に依る魚介類の行商問題)その実態を探求するための研究斑が設置され、各中学校から委員を選出して1年間実態把握と対策について協議してきた。私もその委員として活動していた。そしてそれをまとめ、

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