教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠き思い出 27

我孫子中学校を去る時がきた。根本正夫校長(当時我孫子第一小学校校長)、山崎森蔵 校長(当時我孫子第四小学校校長)の推薦もあり,校長試験に合格して,昭和44年流山
市立東部中学校へ赴任したのである。そう言えば,東葛飾地方出張所での管理職試験の 面接の時、大澤健所長(教育についていろいろと指導して貰っていた)から、[県での試 験が済んだら、言うことを聞け」と言われた。それが、流山東部中学校へ行ってよく分 かった。

 南柏駅からの道は、駅前の商店街を抜けると国道6号線にぶつかり、それを渡ると松 ヶ丘団地に入る。一戸建ての宅地を左右に見て,暫く行くとその先が流山東部中学校で ある。昭和四十四年四月、開校三年目のこの学校に新任校長として赴任した。新設後間 もない時であったので校舎も明るく生徒ものびのびとしているように思えた。校長とし て新しい学校経営をと考え,先ずは学校の実態の把握だと思ったが、その必要もないほ どの実態が毎日浮き彫りにされてきた。校長としてどのような経営を為すべきかという ことは、この学校では特定の教師が考えており、日常の教育実態はその人の采配に依っ て行われているのだ。だから職員朝礼で校長の私が教育の方向を述べても「さぁ、皆さ ん、学級で子どもが待っています。早く教室に急ぎましょう」と私の提示など無視する。 今までそうであったのか。職員はその人の発言に従うのだ。これは、大変だと私は考え た。それからそのようなことがあると、私は職員朝礼の終わった後必ずその先生を校長 室に呼んで、私の考えを話してきた。最初は[生徒が待っています」とか、黙って聞き流 すようなたいどを取っていたが、私は執拗にこの人と接した。授業も見に行った。「何 で校長は授業を見に来るのか。授業は教師の権限であり、校長に云々されるものでない」
とこうぎをしてくる。私は、「いや、あなたの授業を見に行っているのではない。教室 の管理不備で怪我でもさせてはと心配で見に来ているのだ」とそれをはねつけた。そう こうしている中に、その人も大分軟化してきた。しかし、校長室での話し合いも妥協点 もあったのだが、校長室を出て職員室に戻ると「まったく、校長は何も分かっていない。 話し合いにならない」と口走る。それはそうであろうと私は思った。今までそのように 対応してきたのを今更校長に妥協することは、自分自身に許せないのだろう。思ってい た通り一月に入ると来年の人事で異動させてくれと言って来た。この人のためにもと柏 中の高橋武司校長にお願いして、柏中との交換人事と言うことでお願いした。丁度柏中 で移動希望の教師がいてこれは具体化した。そして、四月から東部中に赴任してきたの が、阿部孝子さんだった。

 

遠い思い出26

 私は、教師集団の組織化こそ学校を変革し得る基だと思いそれに取り組んできた。いろいろと抵抗もあったが、渡辺さん始め樽さん,稲生さん、豊島さんらの支持もあり、次第に軌道に乗ってきた。生徒の活動を助長し、生徒集団の組織化と生徒自身による学校生活づくりの実践も見えて来た。生徒たちの心の向上はは自分に負荷を掛けられる精神的面の発達だと考え、その実践に取り組んだ。

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遠い思い出 25

我孫子中学校へ赴任してみて,私が見た我孫子中学校は数年前に火災に遭っていて全焼した後、建て替えられた半円形型の校舎で校庭に平行して廊下が広がっており、三階までの廊下に生徒が群がり校庭を見下ろしていた。校庭には、休み時間というのに一人の生徒も出ていない異様な光景であった。我孫子中学校は当時体育館がなくて、私達我孫子中学校への赴任教師は、我孫子第一小学校の体育館で辞令を戴いた。

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遠い思い出 24

野田市立川間中学校への道は農村への道であった。川間駅から歩いた20分の道程は、久し振りの現場復帰で,すがすがしく又活力の湧き上がるひとときであった。校長は黒川忠氏で経営の大筋は見通していて、計画から実践まで具体的なことは任せて下さった。そうなると、当然やる気になる。川間は,教育に関心の高い地区である。教師も揃って

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遠い思い出 23

教員組合の組合員が教育実践の力をつけるには、教育研究の場を確保しなければと当 時教育活動の拠点として、東葛の教師たちが資金を拠出して建設した財団法人東葛教育 会館が柏市柏駅西口にあった。その会館の事業の一つに教育研究所があり、その企画 の中に教師の研修事業が位置づけられていた。研究所を通して教育研修を進めようと赤 澤敏雄さんに中心になって頂き、様々な教育研究がなされた。書記次長であった若王子 博夫氏の努力も忘れられない。

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遠い思い出 22

風早中学校での思い出は,出会った同僚との魂の揺さぶりだ。教育の現場で教育を語り生徒の行動を話し合うだけでなく,人生のあり方を話合う場と時を作ったことを強烈に思い出す。その仲間が今井義武であり、岡田博だ。今井は多趣味で、人間味があり,私とはウマがあった。組織した読書会で川端康成の小説を読み合ったり,長野の諏訪まで行って

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遠い思い出 21

子どもとの学校生活の中で、相変わらず私は、子どもらに注意をされ、意見も言われた。それは、彼等を私と同じ人間として思うからだ。悦子、美千代、美智子などの注意は何時もだった。乱暴者としていわれていた高橋利昌も、よく私に食いついてきた。生きることに真剣さがある利昌と言い合った。彼は、卒業して間もなく死んだ。喧嘩から刺されたのだ。葬儀に出て、泣いた。中学校の2年半学校に来ていても、口をきかなかった秋山利郎が3年の後半ホームルームで前に出て司会をし発言した。私の目から涙がしたたり落ちた。飯塚勝将達学級のみんなの努力だ。それが稔ったのだ。3年間受け持った彼等は卒業し去って行った。卒業しても一緒に学習しようと集まって始めた「だるま会」は文集を出しつつ続けていった。「やまびこ学校」にも等しい生活運動が続けられていったのである。

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