教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 前理事長の公式ブログ

遠い思い出 3

小学校を卒業して新しい中学校に入学した。その中学校は自分の家から歩いて行けた。新しい中学校というのは、新設の中学校で、平屋立ての木の香の匂う校舎が雑木林の中に並んでいた。そこで私は4年間を過ごした。と言ってもその4年間は、唯勉強をする4年間 ではなかった。別の言葉で言えば、波瀾万丈の時でもあった。
でも小学校で常に緊張の中で過ごしていた時と比べて、自分のことも考えられ、学習にも
力を入れられる余裕ができた。
1年生だけの中学校は、

 

上級性がいないので、気分的には、解放される事が多く、又
教師も若い方が多かったので活気のある日々が続いた。 友達も増えていった。世田谷区から来ていた藤井君とは、下校の時駅までの道道一緒になった。彼は、いつも遅刻寸前に校門に入って来た。遅れることもしばしばで、遅れると罰として校庭を5周走らされた。何人かの遅刻者は、のんびりと走っていたが彼は違っていた。あごを突きだして,必死の形相で走り回った。その気概に私は感嘆した。それで彼に近寄り駅への道を同行した。彼は、何かに夢中になる気質をもっていると感じた。藝術家なんだと感じた。ある時一緒に駅まで帰る道で「僕の所へ遊びに来ないか」といわれた。 {行くよ」と答え,彼の家を尋ねた。
洋館の大きな家だった。女の人が出て来て,ピアノのある洋室に通された。何を話したかは覚えていない。きれいな洋装の女性が「輝明のお友達ですね。」「お友達になってあげて下さい」と言われた。彼の父親は外交官でヨーロッパの国に行っていたのだ。私の家の状況と極端に違っていた。
入学したその年は,昭和16年で、中国との戦争が長く続いており,多くの家では、父親や兄などが戦争に動員され,戦死した人々も多くなっていった。つまり、戦時色の濃い時代となっていた。その年の12月8日、いつもの通り、登校しようと準備をしていると、付けていたラジオの音楽が突然消えて,「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げますと甲高いアナウンサーの声が響いた。「陸海軍令部発表、帝国陸海軍は本8日未明南太平洋上において,米・英・蘭軍と戦争状態に入れり、繰り返し申し上げます
との発表が続いた。その後「海軍部隊は,本8日未明ハワイ真珠湾を攻撃し港内に於いて敵戦艦及び船舶何隻を撃沈したとの発表が続いた。「日本は,アメリカやイギリスと戦争を始めたのだ。そして、アメリカやイギリスの戦艦を沈めたのだという勝利に酔いしれたのだった。学校へ行くと,直ちに生徒は集められ,これから鬼畜米英を相手に戦争が始まったのだと告げられ,君たちも国のため,天皇のため戦いに行くのだといわれた。今までは、中国との戦いであったがこれからは、アメリカやイギリスまでも相手にして戦うのだという大変さよりも,あちこちへの日本兵の戦いの勝利に酔い、勝った,勝ったと踊り狂っていた。そして、中学2年になり1年生が入って来た。国は戦時色一色となり学業に専念することよりも,国のために中学校の生徒は何が出来るかと問われるようになった。そして2年生の途中から学徒勤労動員という名のもとに,主人が戦地に行っている農家の農作業の手伝いに行かされた。3年になる前まで学業の合間に農作業に狩り出されたのである。そして戦争の拡大が直に中学生のわれわれに襲いかかってきたのである。
「今の日本は学徒は学校で勉強している時ではない、戦地で命がけで戦っている兵士を思い、学業を投げ打って国のために働くべきだと言われた。そして私達3年生は,東京の田無町にある中島飛行機工場に学徒動員されたのである。日本国中の大学生、中学生が動労動員に狩り出されたのである。