教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 前理事長の公式ブログ

2018-01-01から1年間の記事一覧

遠い思い出 25

我孫子中学校へ赴任してみて,私が見た我孫子中学校は数年前に火災に遭っていて全焼した後、建て替えられた半円形型の校舎で校庭に平行して廊下が広がっており、三階までの廊下に生徒が群がり校庭を見下ろしていた。校庭には、休み時間というのに一人の生徒も…

遠い思い出 24

野田市立川間中学校への道は農村への道であった。川間駅から歩いた20分の道程は、久し振りの現場復帰で,すがすがしく又活力の湧き上がるひとときであった。校長は黒川忠氏で経営の大筋は見通していて、計画から実践まで具体的なことは任せて下さった。そうな…

遠い思い出 23

教員組合の組合員が教育実践の力をつけるには、教育研究の場を確保しなければと当 時教育活動の拠点として、東葛の教師たちが資金を拠出して建設した財団法人東葛教育 会館が柏市の柏駅西口にあった。その会館の事業の一つに教育研究所があり、その企画 の中…

遠い思い出 22

風早中学校での思い出は,出会った同僚との魂の揺さぶりだ。教育の現場で教育を語り生徒の行動を話し合うだけでなく,人生のあり方を話合う場と時を作ったことを強烈に思い出す。その仲間が今井義武であり、岡田博だ。今井は多趣味で、人間味があり,私とはウ…

遠い思い出 21

子どもとの学校生活の中で、相変わらず私は、子どもらに注意をされ、意見も言われた。それは、彼等を私と同じ人間として思うからだ。悦子、美千代、美智子などの注意は何時もだった。乱暴者としていわれていた高橋利昌も、よく私に食いついてきた。生きること…

遠い思い出 20

教師の中には、私以上に教育実践の中で悩みを持つ人もいた。教育への情熱を傾けて止まない人もいた。東葛5000人の教師の中で様々な人に出会った。当時の組合には管理職も入っていて,安井新治校長や篠宮善一校長それに関根明信校長などと共に行動できたことは,…

遠い思い出 19

鎌ヶ谷中学校は、当時は農村といわれる地区で、農家の事情もあり、長期欠席の生徒も多く私が学級を受け持っていた時は、その在籍に三~四名の長期欠席者がいた。学級を受け持って暫くして、この長欠者の所を訪問しようと思い、生徒に聞くと生徒は{ああ、その…

遠い思い出18

相変わらず、私は、生徒たちに注意や意見を言われることが多かった。私はそれを喜んで聞き意見を言った。それは彼等と私は同じ人間であり、同じに真剣に生きて行こうとする仲間であるのだ。悦子・美千代・美智子などの注意はいつもだった。乱暴者と言われた…

遠い思い出 17

昭和29年当時日本教職員組合が、日本の教育を再建し新たな教育活動を推進する手段として、教育実践発表の場を設け各県の代表を集めて全国教育研究集会を実施していた。東葛南部地区でも、教育実践に関して、研修部会を設け活動していた。当時浦安、行徳、南行…

遠い思い出 16

当時の鎌ヶ谷村は、農家が多く、農村地区であり、特に梨の名産地でもあって生活が農業主体に行われていた。そのためか、長期欠席の生徒も多く、私か゛学級を受け持った時は、その学級に4名程の長欠生徒がいた。4月当初にその生徒の所を訪問しようと、クラスの生徒…

遠い思い出 15

深山勇とは、卒業後の思い出がある。卒業から数年経ったある日、彼から電話がかかって来てお邪魔したいと言う.家に来て早々に「おれ、北海道の彼女と結婚するんだ。お祝いに品物をくれないか」と言う。「何が欲しいんだ」「生活用品でいいんだ」という。野田…

遠い思い出 14

私は、この生徒のためにも彼等を差別する教育,彼等を排除する学校集団があってはならないと思い,機会ある毎に会議などで発言した.特に知能検査でその子たちをクラス分けしたと公言した教頭には,知能検査が万能なのか,知能だけで教育に差別があって良いのかと…

遠い思い出 13

Kは同級生との争いはしょっちゅうだった。ある日、喧嘩の果てに教室の窓ガラスを蹴破って飛び出した。私は家まで追いかけた.三キロはあっただろうか。彼の後を追って彼の家に入ったところ、彼は母親といた。「どうした」と言って近づくと彼は、台所から包丁…

遠い思い出 12

追い出されたということなのか。何か割り切れぬ気持ちはあったが,新たなる道への期待もあって鎌ヶ谷なる土地に思いをはせた。鎌ヶ谷中学校を見ようと4月の年度始めの休業日に根本隆氏を誘って自転車で住んでいた福田から松戸を通って鎌ヶ谷へ行った。東武野田…