教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 前理事長の公式ブログ

遠い思い出 23

教員組合の組合員が教育実践の力をつけるには、教育研究の場を確保しなければと当 時教育活動の拠点として、東葛の教師たちが資金を拠出して建設した財団法人東葛教育 会館が柏市柏駅西口にあった。その会館の事業の一つに教育研究所があり、その企画 の中に教師の研修事業が位置づけられていた。研究所を通して教育研修を進めようと赤 澤敏雄さんに中心になって頂き、様々な教育研究がなされた。書記次長であった若王子 博夫氏の努力も忘れられない。

そして当時の東葛教育の中心にあった篠宮善一校長や安 井新治校長の学校経営の在り方は、語り継がねばならないものだと思っている。感性鋭 く人間を見つめる眼を持ち、自己の教育理論を通して且つ文学的視野の中から常に教育 を見て私に示唆を与えてくれた酒巻良平氏も忘れることが出来ない。組合の中で得たこ の人々の思想と生き様は私のこれからの仕事に大きな影響を与えている。
二年間の教職員組合リーダーとしての活動を終えて現場に戻った。戻るに当たって私 は自分の主張を貫かして戴いた。組合活動の中では組合員の人事に関する行政当局との 交渉、ある時は団体交渉もあった。不利益を被ると思われる人事案件で東葛地方出張所 との深夜に渡っての交渉を続け,場合によっては断固戦うと宣言したこともあった。出 張所交渉で思い出すのは、その当時東葛飾地方出張所の所長には山武地区出身の渡辺藤 三郎さんがいた。名所長だと言われる。教育は若い教師を育てなければと、機会があれ ば情熱ある若い教師を呼び酒を飲み、唄った。所長自身割り箸片手にタクト振り振りの 歌三昧である。ある人は言った。[渡辺所長の気が知れない。若い教師を集めての歌唄い だ」と。私も呼ばれていた一人だが、、あの細い眼の奥に、人を見る眼光が潜んでいる ことに気がついた。「きっさん(私のことをそう呼んでくれた)さっきの話、的を得てい たぞ」と何もかも知っているような態度である。酔った振りをしての若い教師の観察な のだ。その後その中から東葛の人材が発掘されたと思う。渡辺所長とは、山武に帰っ てからもそして亡くなられるまでお世話になった。出張所との人事交渉は、そのように 努力してもうまくまとまらないこともあった。だから私が組合の職を辞して現場に帰る 時は、みんなの嫌がる地区への赴任をお願いしたいと飯合支部長に念を押していた。具 体的には関宿地区だ。その時になって飯合支部長は「木内君、あまり無理を言うなよ」 と言われた。結局関宿に近い野田の川間中学校に決まった。