教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 前理事長の公式ブログ

遠い思い出 20

教師の中には、私以上に教育実践の中で悩みを持つ人もいた。教育への情熱を傾けて止まない人もいた。東葛5000人の教師の中で様々な人に出会った。当時の組合には管理職も入っていて,安井新治校長や篠宮善一校長それに関根明信校長などと共に行動できたことは,様々な面で私を高めてくれた。又民間の労働組合との連携の地区労働組合の連合体(地区労)があって,柏、野田、流山、我孫子等の民間会社の労働者と交流もあり,若い労働者の熱意と気概に教わることも多かった。 


この時期に日本教職員組合が,日本の教育を再建し新たな教育活動を推進する手段として、教育実践の場を設け,各県の代表を集めて全国教育研究集会(教研集会)が行なわれていた。葛南地区でも、教育研究集会が開かれており,私もそれに参加し,教育実践の発表に
加わったのである。提案内容は,浦安、行徳・南行徳地区の生徒指導上の問題を取り上げ、長欠生徒の増加する現状とその対策についてであった。それが,県での研究集会で選ばれ
県の代表として昭和30年弟6次全国教研集会(松山市)に参加したのである。前年日光市での弟5次教研集会では,無着成恭の「やまびこ学校」が発表されその余韻の残る集会であった。始めて瀬戸内の海を渡り,夏目漱石正岡子規の地松山の土を踏んだ私は、全国各地から選り抜かれて集まった代表の教員の熱意と研究の深さに驚愕した。その実践報告は生々しく,子ども達の思いを背負って話すその姿は私の心を揺さぶった。農村、漁村、山村の各地で繰り広げられる子どもを思う教師の苦悩とその取り組みに私は大きな影響を受けて帰って来た。それが又これからの私の教育実践活動に大きな影響を与え、今まで実践してきたことを定着させる基ともなったのである。
その後の教育実践では、社会科の授業はよく議論をし,現実の社会を見つめての学習を展開した。「家計簿」をつけることから,社会・経済のことに目を向ける学習も展開した。
ここに当時の授業についての生徒水沼一の作文がある。抜粋する。
「先生は,社会科で教科書は使わなかった。私は、先生の授業が楽しみで,胸をわくわく踊らせながら待っていた。みんなと一緒に勉強を進めていく中で、いつの間にか歴史を支えてきた人々、農民の側に立った物の見方や考え方を身に付けてきているのに気がついた。
又先生は子ども集団の仲間のつながりを大変大事にされた。家庭の事情で学校に来られなかった友達の家に呼びにやらされたり、学校での話をさせに行かせたり、時には勉強を教えにやらさせたりもした。先生は一人ひとりの子どもの家庭の事情をよく理解されていた。そうでなければ、社会科で「エンゲル係数」をそれぞれの子どもに宿題として出されはしない。今では、すぐ「プライバシーの侵害だ」と、苦情が出るだろう。円の中のなんと食費の割合の多かったことか。あの色の広がりと母親の淋しそうな顔を忘れない。私は先生の教えを通して、貧しさは恥ずかしいことではない。苦しさや悩みをつき通せ、目をそらすな、生活をみつめ社会をみつめ、どのように生きるかが大事と。まさに昭和20年代から30年代にかけて先生が戦後の苦悩を突き通す中で、新しい時代の夜明けに向けて我らは送り出されたような気がする」,