遠い思い出 24
野田市立川間中学校への道は農村への道であった。川間駅から歩いた20分の道程は、久し振りの現場復帰で,すがすがしく又活力の湧き上がるひとときであった。校長は黒川忠氏で経営の大筋は見通していて、計画から実践まで具体的なことは任せて下さった。そうなると、当然やる気になる。川間は,教育に関心の高い地区である。教師も揃って
いた。東風谷兼広氏は旧制水戸高校の出身だ。彼の中には、旧制高校の生き様と伝統がしみ込んでいた。私は懐かしい思いに駈られた。しかし、それは今の教師には不似合いであるのだ。彼とよく議論した。その彼も今はいない。落ち着いた風情の中に毅然とした教育姿勢を保持していて女教師の中心であった染谷静さん、しなやかさのあった浅川敏雄氏(元柏市中学校長)自己の主張を誰にでもぶつけて酔えば酔うほど理路整然となった永瀬好邦氏(元野田市教育長)はっきりした提言を持つ黒川浩氏(元野田市教育長)若くして情熱に燃えた鈴木昭夫氏(元流山市教育長)思慮深い椎原紘一氏(野田市立中学校長)柔和のようで一本筋が通っていた中村桂一氏、彼等と時には飲んで騒ぎ酔って議論し川間中学校は活気に溢れていた。その中心にいた東風谷兼弘氏の旧制高校意識の抜けきれぬ言動を今でも懐かしく思い出す。一年仕えた黒川忠校長が柏市に転じ、代わりに松岡喬校長が赴任してきた。野武士的存在感のあった氏は,ある日石毛敏治教育長が来校しても校長室の机の前に座ったままで,教育長が校長室に入って来て初めて「やあー」と顔を上げる態度であった。真に毅然としたものであった。二年間で川間中から出された。東葛飾地方出張所には、親友の古谷武雄管理課長がいて、彼から電話が掛かって来た。「転任だ。俺の言うことを聞け」と言う。何処だと言うと任せておけと言う。そのままにしていたが,その後人事の内示が校長からあり行く先は我孫子中だと言われた。
もう少し川間中学校で若手教師と実践教育を深め確かめたいと思っていたのだが,無理矢理に出された感がする。川間地区の住民からも二年で去るのは非情だぞといやみを言われる。だが、昭和40年4月我孫子中学校へ行ってみて,古谷管理課長の気持ちが分かってきた。我孫子中学校は私が教職員組合の書記長時代に[渡辺教諭(条件採用期間中)不採用事件」があり,又学力テスト反対闘争下に、我孫子中生徒のテスト不参加問題が発生し,県教育委員会との軋轢もあって学校は殺伐とし教師間にも不信感が募り正常に教育が行われていない状態になっていたが、人事で教師の入れ替えもあってある程度平穏な学校になりつつあった。