教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 前理事長の公式ブログ

遠い思い出 30

昭和52年4月、4年間に亘る東葛飾地方出張所での管理行政の仕事から解放されて,懐かしい教育現場に帰ることになった。しかし、自分自身管内の人事に携わっていたので,当時の小菅傅地方出張所長には私の人事は最後でよいですと申し上げていた。そして、最後に空いていたのが,小学校であり、野田市立南部小学校であった。小菅出張所長は小学校でいいのかと気遣って下さったが私は何となく心安らぐ思いがした。

 

当時、野田南部小には、私の尊敬する安井新治校長が居り,先生の転任で私が行くようになったのである。久し振りの教育現場である。赴任の時には子どもにどんな話をしようか,教師のみんなに私をどのように伝えようかと心わくわくして、その日を待ったのである。野田南部小学校は自宅から時間にして30分あれば歩いて行ける距離である。子ども達と歩いて登校しようと思った。久し振りの小学校であるが、この子達に何を教えるべきか悩んだ.と言うのは小学校の教師集団は学年毎に固まっていることに気が付いたのだ.何事も学年でまとまろうとする傾向がある。そこが,中学校との違いなのかも知れない。教科毎にまとまる中学校と学級を基本にしてまとまる小学校との違いを認識してかからなければと思った。そして、安井前校長の残してくれた県社会科研究会の発表会場として授業の公開を義務づけられたことである。しかしこれを私は、この学校の先を見通した経営課題に転換して,教師と子ども達の先への発展のために成し遂げる実践会にしようと思った。何故社会科でなくて,生徒指導的な行事にするのですかと教師に攻められる場面もあった。社会科の大きな学習には、活きる力や、活きて働く力を付けることが肝要なのでこの展開こそ、今求められてはいないかと,集団活動を主に会を展開したことは,私の小学校の教師に要求すべき研修課題でもあった訳である。子どもたちの主体性と自主性、それを育ててこそ社会科実践の実が稔る。このことは、この会を通して教師の認識を新たにしたようである。集団としての子どもの意識そこから自他の認識を産み,集団に係わる様々な行為が自分を高め,他人を大事にし、より深い人間意識に転移する。職員室で飯田敏男がよく言っていた言葉「大事なのは、人間対人間だ」は、私の考えを言い得ている。「あいさつを大事にしよう。そして、負荷を掛ける教育こそ今必要なのだ」という私の経営の具体的目標は実践に繫がって行った.集会活動も活発になった。6年生がすべてに最高な学年であって欲しいという要求を6年生の担任はしっかりと受け止めてくれた。何事も同じレベルで行為しようという学年意識を振り払ってくれたのも,斉藤一枝のお陰である。いろいろな行事でも6年生の意識が代わり、運動会にしても,就学旅行にしても,自分たちでという意識が芽生えてきた。市内の陸上競技大会での優勝やミニバスでの優勝と子どもたちが勝ち取る自信が益々子ども達を向上させた