遠い思い出 25
我孫子中学校へ赴任してみて,私が見た我孫子中学校は数年前に火災に遭っていて全焼した後、建て替えられた半円形型の校舎で校庭に平行して廊下が広がっており、三階までの廊下に生徒が群がり校庭を見下ろしていた。校庭には、休み時間というのに一人の生徒も出ていない異様な光景であった。我孫子中学校は当時体育館がなくて、私達我孫子中学校への赴任教師は、我孫子第一小学校の体育館で辞令を戴いた。
吉植三郎教育長が「君ら今の我孫子中学校をなんとかしろ」と新たに赴任してきた6名の教師を前に檄をとばした。おかしな着任式になったのだが、今にして考えれば吉植教育長の心も解らないわけでもない。その時教育長の前に居並んだのは、渡辺恒助、樽哲也、高橋義一、そして私と他2名の面々である。渡辺、樽の二人は此処にたどり着くまで様々な苦労をしてきたようで、初めて会った時からその様相が見て取れた。特に渡辺恒助さんは人の表情から何を言わんとするかを見るに敏なるものがあり、又人の言わんとするその先を見抜いて、軽妙な警句でまとめてしまうその能力の凄さに驚きを覚えた。これでは、彼に対等に太刀打ち出来ない者は参ってしまうであろうと思えた。しかし、彼と付き合っていくうちに太刀打ち出来ない者にもちゃんと救済の手を差し伸べる英知を持ち合わせているのに驚いた。彼は、何処でその様な人間性を身につけたのであろうかと考えたものだった。もう一人の樽哲也さんは、東京の体育教師からの赴任で、東京での教職員体育大会では水泳の部野平泳ぎで度々優勝するほどの実力を持っていたようで、その栄光が身についているような精悍な様相であった。渡辺・樽そして私の我孫子中学校での出会いは、奇遇の一言に尽きる。ここまで生きてきた中でこの出会いは、私を奮い立たしてくれただけでなく、生きる自分の大きな指針となっている。それに、その時新採用で入って来た高橋義一(元柏市立第三小学校長)今は亡き井上義夫・北沢克洋・石田英夫の面々。彼等はどちらかと言えば渡辺恒助さんに教導された点が大きい。
赴任して直ぐ渡辺恒助さんが言った。「あの校舎のベランダに屯している生徒らを校庭に出そう」と。応じてくれた今までの教師たち。彼等も我孫子中学校の変革を願っていたのだから早い。稲生佐・豊島豊・秋山恒久・林正三の面々だ。たちまちのうちに部活動が組織され、教師自身が自ら練習に乗り出すという毎日となった。樽さんなど寒いときでも短パンで生徒と走り回る日々であった。こんなことがあった。当時我孫子市立の三中学校( 我孫子中、湖北中、布佐中)で毎年対抗駅伝大会が行われていた。この年も我孫子中は参加して各中継所に選手を配置した。布佐から出発した各校の選手は最後の中継所に到着する時間を待った。我が我孫子中学校の最後にタスキを受け取る最終ランナーは、ジョギングにと中継所を離れていた。付き添っていた選手担当の教師は、例年の如く我孫子中学校は最下位で来るだろうから、先頭の選手が見えるまでジョギングをしていても大丈夫と思っていた。そこに先頭の選手が見えて来た。それが我孫子中学校の選手であった。タスキを渡す選手がいない。血相を変えて怒鳴る伴走の渡辺恒助さん姿に、動転した付き添いの教師はおろおろするばかりであった。