教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 前理事長の公式ブログ

遠い思い出 5


中島飛行機の工場を去って新たに学徒動員で行くことになった日本無線株式会社は 中央線の吉祥寺で降りて25分余を歩く三鷹市の新川にあった。前の中島飛行機工場と違って工場の周りは櫟林に囲まれた静かな環境の中にあった。仕事も私が担当したのは、中型無線機の配線のハンダ付けであった。聞くところによればこの無線機は、電波探知機とよばれ、その当時(昭和19年)太平洋戦争も日本の敗戦が続き、太平洋のサイパン島もアメリカに占領されB29という大型爆撃機が日本の都市を襲い爆弾や焼夷弾を落とすようになっていた。

 

そのアメリカのB29爆撃機が日本に来襲し日本の高射砲に打ち落とされた。その残骸の中からアメリカの最新の無線機が発見され、それをもとに日本でも製作するようなっていたのである。無線機のハンダ付けという中島飛行機と違って楽なそして静かな環境での勤労動員でいくらか戦争というこわさを忘れていた。しかし、工場からの行き帰りに空襲に遭い、道の側溝に身を隠したり、したものである。いくらかの余裕ができたからか、工場の休日の時は、家で学習する時もあり、又友達と遊び歩くこともあった。その1人に泉治典君がいた。彼も私を自宅に誘った。吉祥寺の清楚な邸宅であった。彼は、自分の部屋を持っていて、その部屋には、大きな勉強机があった。
その机の上に本が開かれており、覗いてみると、横文字が見える。泉君がそばにきたので「 難しい本を読んでいるんだね」というと、‘木内ね、それは、右から左に読むんだよ。ヘブライ語なんだ」といわれた。その勉強ぶりに、私は「よし、おれもやるぞ」という意欲をわかした。彼は又山に誘った。先ずは高尾山に行った。高尾山に登ったとき、山頂から五日市町方面を見ると丁度五日町はアメリカの爆撃機が空襲中で黒煙がもうもうとあがっていた。なんともさびしい景色であった。秩父連山の甲武信岳も登った覚えがある。
泉君のお陰で今でも、山登りの爽快さが忘れられず、たまにテレビで見る登山者の姿に懐かしさがこみ上げてくる時がある。
又、工場での休憩のひとときに学友のみんなで。これから日本はどうなるのかなど意見を交換したことも覚えている。友人の高野君がいった言葉の中に、「もう日本は駄目だと父が言っている。この戦争は負けだ」とこの言葉に皆は猛反発した。「日本は負けるはずがない」「日本は、神の国で絶対に負けない。必ず勝つ」といきり立った。でも高野君は、ひややかに皆を見て、神なんかいるものか。みんな間違っているよ。現に今日本軍はあちこちで負けているではないか。「今の状態で勝てるはずがない」と力説した。
その当時は、もう日本軍は南方戦線でアメリカ軍に追い詰められ、たくさんの戦死者を出して敗退していた。しかし、その事実をときの政府は、国民に知らすことなく、いつかは、挽回してくれると信じていた。しかし、南方の日本軍は、たくさんの兵隊が戦死する中で、太平洋の島サイパン島も占領されそこから爆撃機B29が日本の都市を爆撃するようになってきた。そして、昭和20年の3月9日の夜間から10日にわたり東京大空襲で東京の下町は火の海となり10万人からの人が死んだのである。