教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出18

相変わらず、私は、生徒たちに注意や意見を言われることが多かった。私はそれを喜んで聞き意見を言った。それは彼等と私は同じ人間であり、同じに真剣に生きて行こうとする仲間であるのだ。悦子・美千代・美智子などの注意はいつもだった。乱暴者と言われた高橋利昌は卒業して間もなく事故で死んだ。喧嘩から相手にナイフで刺されたのだ。よい男だった。私の言うことは、

 

「うるせぇ」といいながら聞いてくれた。私は彼の葬式に出て「バカ野郎。なぜ死んだ」と怒鳴った。2年半以上登校して来ても口をきいたことのなかった秋山利朗は3年の後半ホームルームの時間に前に出て司会をした。「これから、ホームルームを始めます」と言ったのだ。私の目から涙がしたたり落ちた。級友の飯塚勝将達学級の皆の努力だ。それが稔ったのだ。彼は今乳産業に従事していて、「たまには寄れ」と言う。3年間、生きる道を追い求めた彼等は卒業していった。しかし、生き方を求めて集まって来た卒業生たちがいた。「だるま会」を作り活動を始めた。私も参加して、活動した。新聞2ページの謄写版刷りの「文集だるま」が出版され、映画会の開催や地域の文化活動も展開してきた。私の教育の充実した時期とも云える。やりたいこともこの鎌ヶ谷で実現できた。特に嬉しかったのは、学生時代に活動していた演劇活動が出来たことだ。学年全体で取り組んだこの演劇活動は、どのような企画で実現したのか、今では不明だが、3学年で全員で取り組んだのである。制作、監督、舞台監督、演技者すべて生徒に任せてみた。彼等は立派に作り上げた。劇「魚の学校」は今でも忘れられない。今でも当時の話になると「魚の学校の練習の時にOO君はサボって逃げ出すのを何とか説得して連れ戻したけれど大変だったね」と、監督をした飯田由紀子が言う。聞いている皆もうなずく。話題を共有している喜びがある。鎌ヶ谷中学校時代は、図書館経営も受け持っていた。図書館は、開架式を中心にしていたが、生徒には、貸し出しも勧めていて一週間ほどの家への持ち帰りを奨励していた。農村の子ども達に本を大切にしろと言うよりも、何時でも、どこでも本を読めと勧めた。ある時、国語教育の指導で県の指導主事が来校した。その指導の中で図書はすべて備品であると言った。私は反発した。子どもたちが読めば本はぼろぼろになる。又ぼろぼろになるまで読んで欲しい。だから図書は消耗品だと食って掛かった。これも生徒に本を大事にするよりも、読んでくれることを願う私の読書実践であった。その図書館活動は地域の子どもたちへと発展した。これは、あの終戦後の過去に児童文化活動に関係し{緑陰子供会」を組織し、図書と紙芝居を持ち歩いた体験に基づいている。夏休みに図書館部員で協力し、鎌ヶ谷の各地区を炎天下リヤカーに本と紙芝居の用具を積み込んで出掛けた。お寺、神社の境内の木陰の下で幼児や小学生を集めて、紙芝居を熱演し童話を読み聞かせた。これは、今でも懐かしく思い出してくれる生徒がいる。