教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出 17

昭和29年当時日本教職員組合が、日本の教育を再建し新たな教育活動を推進する手段として、教育実践発表の場を設け各県の代表を集めて全国教育研究集会を実施していた。東葛南部地区でも、教育実践に関して、研修部会を設け活動していた。当時浦安、行徳、南行徳地区の中学校生徒の実態は、長期欠席生徒の数が多く、大きな教育課題となっていた。(特に生徒に依る魚介類の行商問題)その実態を探求するための研究斑が設置され、各中学校から委員を選出して1年間実態把握と対策について協議してきた。私もその委員として活動していた。そしてそれをまとめ、

 

千葉県代表として昭和30年第6次全国教育研究集会(松山市)に参加することになった。
前年日光市での第5次研究集会で、無着成恭の「やまびこ学校」が発表されその余韻の残る集会であった。始めて、瀬戸内の海を渡り、夏目漱石正岡子規の地、松山の土を踏んだ私は、全国各地から選り抜かれて集まった代表の教員の熱意と研究の深さに驚愕した。その実践報告は生々しく、子どもたちの思いを背負って話すその姿は私の心を揺さぶった。農村・漁村・山村の各地で繰り広げられる子どもを思う教師の苦悩とその取り組みに私は大きな影響を受けて帰ってきた。それが又これからの私の教育実践活動に大きな影響を与え、今まで実践してきたことを定着させる基ともなったのである。
全国教育研究集会から帰った私は、担当していた社会科の授業に力点を置き、生徒とよく議論し、現実の社会をみつめての学習を展開した。「家計簿}を付けることから社会・経済のことに 目を向ける学習も展開した。当時の実践例を卒業生の書いた手記から引用する。
先生は、社会科で教科書を使わなかった。私は先生の授業が楽しみで、胸をわくわく躍らせながら待っていた。みんなと一緒に勉強を進めて行く中でいつの間にか歴史を支えてきた人々、農民の側に立った物の見方や考え方を身に付けてきていることに気が付いた。 又先生は子ども集団の仲間のつながりを大変大事にされた。家庭の事情で学校に来られなかった友達の家に呼びにやらされたり、学校での話をさせに行かせたり時には、勉強を教えにやらされたりもした。先生は一人ひとりの子どもの家庭の事情をよく理解されていた。そうでなければ、社会科で「エンゲル係数」をそれぞれの子どもに宿題として出されはしない。子どもたちに生活を見つめさせる。収入に於ける支出の割合など注視させやしない。今では、すぐプライバシーの侵害だと苦情が出るだろう。円の中のなんと食費の割合の多かったことか。あの色の広がりと母親の淋しそうな顔を忘れない。私は先生の教えを通して、貧しさは恥ずかしいことではない、苦しさや悩みをつき通せ、目をそらすな、生活を見つめ、社会を見つめ、どのように生きるかが大事。「一人のために」「みんなの幸せのために」まさに昭和20年代から30年代にかけて、先生が戦後の苦悩をつき通す中で新しい時代の夜明けに向けて、我らは送り出されたような気がする。 (M君の手記)