教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 前理事長の公式ブログ

遠い思い出 14

    私は、この生徒のためにも彼等を差別する教育,彼等を排除する学校集団があってはならないと思い,機会ある毎に会議などで発言した.特に知能検査でその子たちをクラス分けしたと公言した教頭には,知能検査が万能なのか,知能だけで教育に差別があって良いのかと食って掛かり大声で怒鳴られたりもした。しかし、私の言い分が通ったのか2学期からこの能力別学級は解体して適正な学級集団が成立した。そしてこの生徒たちとは、ばらばらになった。しかし、短期間だったけれど彼等から教わったことは多かった。これからの私の教育実践にどれだけ役だったことか。ここから一年半普通学級の担任として又社会科の教師としてこの学年の生徒たちと学習をしてきた。

 

そこでは常に生徒の視点で教育を考え,生徒一人一人を人間としてみる大切さを学んだように思う。鎌ヶ谷中学校では、先輩教師に恵まれた。その一人に三好一男氏がおり、彼から教育に対する積極的構築と創造性を高める行事活動を教わった。彼と取り組んだJRC(青少年赤十字団)加入は,生徒の自立性と主体性を育てる実践であった。この中でリーダーとしての生徒たちが育ってくれた。鈴木信義は昭和27年に担任として受け持った。彼とはよく議論した。授業の内容は勿論,学習の仕方、私の指導のやり方と,彼は私に鋭く突っ込んでくる。私も真正面から向かい合い話し合った。彼は,卒業後の進路を農家の長男であり,家を継ぐということから親に高校は農業科に入るよう要望されていて悩んでいた。彼自身廣い観点からの学習をしたいと思っていた。私も今まで彼から受ける人間像からして,又将来鎌ヶ谷でリーダー的人物になるであろうと親に話し合い高校進学は普通科に行かせて欲しいと強く訴えた。そして、彼は東葛飾高等学校の普通科に入学したのである。高校卒業後,家業の農業に従事し、梨栽培にとり組んでいて、近くの小学校のPTA会長をしており,私が千葉県の教育委員会東葛飾教育出張所で管理課長をしていた時、その小学校へ学校訪問で行ったのだが、招かれて梨をご馳走になつたことを思い出す。.私が県の教育委員会に仕事で行ったとき,社教の係長が「木内さん、鈴木信義さんを知っていますね」と尋ねられた。鈴木さんは,「今こうして県の役職などをしていられるのは木内先生のおかげなんです。.木内先生あっての私なんてす」と話していましたと言うのです。心温まる思いがした。彼は今はいない。梨農園で作業中、樹木と耕耘機の間に挟まれて急死してしまったのだ。残念で仕方が無かった。彼の死を惜しんだ親友がいる。深山勇だ。彼も、信義同様,中学校の時からしっかりした生き方を持っており,私にも自分の主張をぶつけてきた。高校卒業後鎌ヶ谷の役所に入り、信義が亡くなった時には総務課長だっただろうか。彼が鈴木信義の葬儀を取り仕切った。 彼、深山勇にも思い出がある。2年の時だ。中間か期末の英語の試験で私が試験監督として教室にいた。教室の前方に坐って答案用紙に向かっていた勇の様子がおかしい。何時もの彼ではない。そっと行ってみると,腕に書いた英語を視ている。私は軽く彼の肩を叩きそのまま机間を廻っていた。それでそのことはおしまい。その後彼ともこの話はしたことがない。私は彼を信じていた。それで彼が駄目になるとも思われない。しかし一番心配するのは、是が公になることで彼が自他の関係に大きな齟齬を生じるこのことは、無くなければならない。彼自身が解決し、これを機に更に発展するだろうと思ったのだ。