教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出 12

    追い出されたということなのか。何か割り切れぬ気持ちはあったが,新たなる道への期待もあって鎌ヶ谷なる土地に思いをはせた。鎌ヶ谷中学校を見ようと4月の年度始めの休業日に根本隆氏を誘って自転車で住んでいた福田から松戸を通って鎌ヶ谷へ行った。東武野田線新京成電鉄の交差する所にある鎌ヶ谷中学校は,平屋建ての古い木造校舎であった。
この鎌ヶ谷中学校の校長は私が教師になるきっかけを作ってくれた吉田俊夫氏であった。
吉田校長の紹介で下宿先も決まり中途半端な赴任となったが4月16日一人で鎌ヶ谷中学校へ赴任した。職員室の席に座るやいなや、根本教頭が脇に来て「やあ、今日からあんたは2年生のクラス担任だ。2年生は今年か

 

ら習熟度別学級として学級編制をした。普通にA組B組と呼ぶと生徒は差別されるように思うだろう。それで学級の呼び方を担任の名をつけて呼ぶことにした。君の学級は木内ルームた゛特に君の学級は,課題のある子どもが多い。心して教育したまえ」と言われた。赴任して早々の教頭のこの言葉に何が問題なのか。教育の初歩も未だ身についていない私には、分からないことであった。考えて見れば何の教育に関する学習もせず,福田中学校での2年間は,廻りの教師に支えられ,農村の素朴な子ども達に助けられて,自分勝手な教育を行ってきたとも云える。
教頭の指示が終わると,担任する生徒に会おうと渡り廊下を通って教室に急いだ.戦争中兵舎であった薄暗い教室には、5・6人の女子が前の机の廻りにたむろしている。「やあ、」と声を掛けたがちらっとこちらを見たまま、返事がない。「あれ、他の人はどこへ行ったのかなあ」と問いかけても無言,しょうがないのでおとなしそうな女子に「よう、他の生徒はどこへいったの」と2度3度と問いかけると「あっち」と新京成電車初富駅方面を指さした。当時新京成電鉄津田沼から鎌ヶ谷初富駅までで,未だ松戸までは続いていなかった。その初富駅止まりの線路の先に砂利置き場があり,小山のように砂利が積まれていた。その方面だろうと捜すと、その砂利場の当たりに男の集団がたむろして砂利などを投げていた。これがそうだろうと「やあー、みんな」と大声で叫ぶと、こちらを向いた彼等は,一斉に散り散りに走り去った。「あれれ」という間である。後日談であるが、私の声に散り散りに走り去ったのは、教師から逃れさる彼等の知恵であったのである。散り散りに逃げれば、追い手は、どちらを追えばよいか迷い逡巡する。その間に逃げようというのだ。私の学級の総数28名は、障害のある生徒や問題生徒や学力の低い生徒の寄り集まりなのである。その生徒達は皆1年の時から見放されていたのである。学習が成り立たない毎日であった。教室を歩き廻る生徒、一つの机にたむろして話し合う女生徒。皆の気持ちをなんとかまとめようと努力をすればするほど生徒は知らん顔、無視し、強いれば反発してくる.完全に教師を敵視してくる。彼等との授業は私ひとりでやったのであろうか。今は覚えていない。覚えているのは、毎日彼等の生きがいとの対決だ。じっとしていられない子、山もぐりを得意とする子。その中にKがいた。