教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 前理事長の公式ブログ

遠い思い出 8

児童劇団の活動は、思うようにいかなかった。稽古の場所の確保も侭ならず、小学校の空き部屋を借りたりしていた。劇団の児童たちも、平日は学校に登校しているのだから、稽古となれば、夜間か日曜日に限定される。それにスター的な児童ともなると学校のクラブ活動で活躍し、他の芸能団体にも入っている。劇団員の確保が困難にもなってきていた。
そこへ野田市の小中学校の児童生徒への公演が終わった後の一言「学校では、劇が出来るよ」という吉田校長の一言が強く心に響いた。当時義務教育の小中学校は、昭和20年8月15日に終戦を迎え9月2日日本政府は米艦ミズリー号船上で降伏文書に調印した。

その後占領軍は、マッカーサー司令官を通して占領布告を出し、政治改革、経済改革及び教育改革を要求してきた。その中の教育改革では、今まで日本では、国民の義務教育は、小学校6年までであったが、今後中学校3年までを含めた9年間を義務教育にせよという通達が出た。その結果、日本政府は、全国の各県に義務教育3年間延長する中学校設置の法令をつくり実施した。その結果今まであった小学校の脇に中学校が設置されることとなった。しかし、戦争に依って荒廃した所に又経済的にも新中学校を新設する財源がない状態で、殆どの新設中学校が小学校の校舎に間借りしている状況であった。占領軍の要請でつくられた新設中学校は、入学してくる生徒を教える教師の採用が間に合わず、全国で新設中学校の教師捜しで大童であった。丁度その時に私は、児童劇団をつくり飛び回っていた。そこで偶々、大学を休学していた私に白羽の矢が立ったのだ。吉田校長は、教師捜しで大童であったのだ。あいさつ代わりの気持ちで住所を教えて東京へ帰った所翌日電報が来た。直ぐ野田へ来て欲しいというのだ。先日の公演のことで何かが有ったのかと指定された野田市の小学校へ行ったところ、吉田中学校長が待っていて、千葉県の中学校の教師への採用が決まった。ついては、保健所へ行って健康診断書を取ってきてくれというのだ。急なことで驚いたが、児童劇団も経営が難しくなってきていたので、仕方がない、演劇が出来るということで、指定された保健所に行き診断書を貰い。吉田校長に手渡した。その後はあっという間に千葉県の中学校の教師になってしまった。