教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出 7

太平洋戦争が昭和20年8月15日にラジオからの天皇の放送で始めて戦争が終わったことを知った。戦争が終わったという安堵感と、これから日本はどうなっていくんだろうかという不安が心に残った。時が経つに従って、その不安は増大していった。空襲はなくなり死ぬ心配はなくなったが,日本全土は,各都市が空襲に遭い,焼け野原となっていた。家を無くした人、家族を失った人と日本の国民は何らかの被害を受けていた。それに,占領軍に降伏した日本の兵隊達が,外地から帰ってきた。何百万という軍人だけでなく、

 

外地にいた一般の日本人も着の身着のままで帰ってきた。その帰還する人々は3年間にわたった。

空襲で家を失い,外地にいた軍人や一般法人も加わってそれでなくても戦争で荒廃した田畑からは食料物資は少なく,多くの人が食うことに追われた。
空襲で父母をなくした孤児を戦争孤児といった。東京でも中心駅に野宿をしている姿がたくさん見られた。衣服を持っている人は、それを売って又はそれと引き替えにこ食料を得ていた。毎日が食うことに追われた。わたしも親に頼っているわけにはいかないと職を捜した。友達と語らって近くの全焼した小学校のプールを利用して水泳講習会を開き,会費を集めたし,東京の中野区に掛け合って庁舎の廃材の片付けを請負った。そんなことで学校へ行く時間がなく,串田孫一教授と山崎正教授の哲学の講座だけは出席していた。
そのうち,演劇に熱意を持っていた友人からのすすめで,劇団の仕事を手伝うようになり演劇のおもしろさに惹かれるようになった。又,卒業した小学校に同窓会を中心にして文化クラブが出来,その中の演劇部門を担当することとなった。 その演劇が嵩じて何人かの友人と話し合って「児童劇団青い鳥」を設立しました。8人ばかりの小学生が入団し活気のある稽古が続いた。協賛して下さった詩人の稲津静雄氏の紹介で千葉県野田市の興風会館で公演をすることとなった。詩人の竹内てるよ氏も参加してくれた。観衆は野田市の小学高学年生と中学校の生徒が参加した。公演が終わった後の会談で隣に座った中学校の校長さんが「どうですか,先生になりませんか。先生になると学校で機会あることに劇ができますよ」といわれた。「劇ができますよ」ということばに心が惹かれた。