教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 前理事長の公式ブログ

遠い思い出 4

学徒動員は,中学校の学舎を離れて、直接戦争の兵器を作る工場に毎日出勤したのである。それは、一般の工場の工員と同じ勤務であった。朝、工場へ出勤すると,私は飛行機のエンジンを製作する工場に急いだ。点呼が終わると,今日の仕事の段取りが有り、仕事に取りかかるのである。工場の中央に大きな炉ガ有り、溶かされたアルミニュムを大きな柄杓でくみ出しエンジンの鋳型に流し入れるのである。幾つかのエンジンの鋳型にアルミニュームを流し入れた後冷却し,

 

一枚一枚鉄板を引き抜くのである。高熱の暑さの中の作業で汗はしたたり落ちて,皿に用意されて置かれている塩を口に入れての重労働であった。働くということの基本条件も知らぬまま,言われる通りの働きをしていた私達は、未だ15歳の少年であったが,真剣に働いた。途中で暑さに負けて,倒れ込む友達もいた。でも‘国のためという思いでがんばった。日曜日は工場は休みだった。それが楽しみでもあった。高橋巌君と出会ったのもその頃であったろうか。彼は、中野区の鍋屋横町近くに住んでいて,自宅は,衣装屋であったと覚えている。ある時、彼が家に来ないかと誘ってくれた。
探し当てて彼の家に上がった。2階の小部屋だった。学校のこと、工場でのことなど話し合ったのだろうがよく覚えていない。覚えているのは、彼の家の2階の小部屋で聞いたベートーベンの第五運命交響曲のレコード盤から流れ出たあのトーンのすごさ。
ダダダダダーンという響き。今まで聞いたことのない音律。家で聞いている音といえば
謡曲か、民謡か、童謡だ。心揺すぶる音律のあることとの出会いは、若かったわたしに取って忘れれぬひとときであった。夕暮れ過ぎて帰りかけた私に高橋君は、送っていくよと一緒にそとへ出た。中野駅までの道を何の話をしたのかは、覚えていない。でも彼と2往復したことは忘れていない。青春の時代の友情というものなのか。
酷暑の中での工場での労働は、数ヶ月で終わった。手塚昇校長は、この重労働の事実を知るや、直ちに中島飛行機工場に未成年の中学生にこのような過酷な労働を強いるのは、
許せないと強行に抗議したのである。当時は、軍人がえばっていた時代で、このよ抗議をしたら捕まってしまうという心配もあったのであろうがそれを押して抗議をした手塚昇校長の生徒を思う心には、今でも感激を覚えます。手塚校長の自分の進退を賭けた抗議に押されたのか。中島飛行機工場での学徒動員は中止となり、数ヶ月後に新たな学徒動員場所として、東京都三鷹市にある日本無線株式会社に決まり、いくこととなった。