教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出 2

わたしの入った小学校は東京の郊外の静かな住宅地にあった
入学した時の私は,内気で人見知りをする子どもであった.それで、学校の行き帰りの道で上級性にいじめられることもあった。でも,休まず通学していたのは,何か学校におもしろいことがあったのであろうが,今思い出せばクラスの友達が良かったのではないだろうか。
3年生のころになると,クラスの友達とも仲良くなり,学校か゛終わるとみんなで遊んだ。
その一つに相撲があった。学校の近く

 

に原っぱがあってそこに土俵をつくり,取組表なども作って競い合った。私は、機敏で動き回り勝つことが多かった。又放課後の学校の隅で三角野球もした。三角野球とは2塁を除いて1塁から3塁に走りホームにくるという野球の仕方だ。場所も小さくて済むし選手も少なくていい。打つのには、利き手に手ぬぐいを巻きそれで軟式のボールを打つのだ。そんな放課後の遊びの中でいつの間にか、私は、親分と呼ばれるようになって「親ギュース」という呼ばれ方をした。それは、その当時世界で有名なフランスのテニスの選手で「ギュース」という言う選手が日本に来て試合をしていた。とても強い選手で日本の選手は誰もが負けていた。その強いギュースと親分の名を掛けて「親ギュース」と呼ばれたのだ。5年生になると学年でも「親キュース」の評判が増してきた。私は5年生の学年の生徒の中心におかれていた。ある時同級生から6年生に言いがかりをつけられ呼び出されているといってきた。私は「よし分かった。やっつけてやる」といった。内心は困ったなあ、どうすればよいだろうかと案じたのだけれど、仕方が無い行こうと決心した。それで無ければ今までの「親ギュース」の名前は、何だ弱い奴なのだと軽蔑されるのだと思うと行くしか無い思った。そして6年生の悪と出会う場所を学校の音楽室の脇と決めてそこへ来いと告げた。なぜ学校の校庭の音楽室脇に連れて行ったかというと、そこは、職員室に近かったし、音楽室には、渡り廊下を通って女の子が行き来していたのだ。けんかになれば女の子は,必ず「先生、先生、けんかをしています」と職員室に駆け込む。それを知っていたからだ。6年生3人が来た。「何だ。えばるな。」との言い争いになり、けんかになった背の高い6年生が私を突き飛ばし馬乗りになりあたまを殴ってきた。馬乗りになった6年生は、私の顔目掛けて殴りかかってきた。その手が私の口にきた。私は、思い切ってその手の指に食いついた。必死で噛みついた。6年生は、その手を抜き取ろうとするが私は必死で噛み続けた。顔のあっちこっちを6年生は、もう一つの手で叩いた。ひっかいた。痛かったが必死で噛んでいる手を噛み続けた。上の6年生は泣き出した。「先生喧嘩しています」と女の子が職員室に駆け込んだ。先生が飛んできた。「又木内か、もう止めろと」先生はどなった。
それで又名前が挙がる。又みんなのためにけんかをするという状態だった。
6年生になっても近くの他の小学校の悪との争いもあり、この状態は続いた。
6年生も卒業間近になると卒業後について考える時になった。 当時は小学校卒業で仕事につくというのが常識であったが、私は、試験を受けて中学校へいくこととなった。そこで私は、中学校へ行く学友一人一人に「お前どこの中学校を受験するんだ」と聞いて廻った。そして、誰も受検しない中学校を選んで入学した。やっと「親ギュース」からはなれた。誰にも、親分と呼ばれ、喧嘩をすることもなくなった。
真面目に自分のことが考えられる時が来たように思われた。