教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠き思い出 1

「私が小学生の五年生と言えば、昭和12年に起きた蘆溝橋事件後日本が中国との戦いに本格的にのめり込んでいき、ついには日米開戦となる昭和16年の2年前の昭和14年の頃である。その頃日本の社会は、日中戦争に加えて、米・英国との摩擦も多く、忍び寄る大戦の恐怖におののいていた。しかし、五年生の私は、そのような大人の苦慮を感じることもなく学校生活を送っていた。日常の生活の中では、穴の空いた運動靴を買い換えるのに苦労した事ぐらいである。その頃私の学級に「ニャーゴ」と呼ばれていた同級生がいた。爪でひっかくから猫のようだ。

 

だから「ニャーゴ」だというのだ。粗末な服と、汚れた手足。同級生の中には、さも軽蔑したような態度をして「ニャーゴ、やーい」とはやし立てる奴もいた。そんな時彼は、歯をむき出し、追いかけた。彼が怒れば怒る程彼はみんなに馬鹿にされた。私は、義侠心からか、彼をかばうことも多かった。そんなこともあって、何となく彼と親しくなっていった。何時のことだったか、私は彼の家に行ったことがある。勉強を教えてくれという彼の頼みであったのであろうか。もう一人の級友を誘って行った。
間口の広い家に入ると、すぐに薄暗い部屋の中で豆電球にタングステンを入れて,封をする仕事をしている老人の横を通って、その隣の部屋に入った。その老人は背を曲げて,やせ細った腕を,せわしく動かし、ぜいぜいと肩で息をしていた。その淋しそうな横顔、その老人が彼の父であった。彼の4人の兄弟は奥にじっとひそんでいるようであった。私たちは、久し振りの客のようであった。机代わりのリンゴ箱のささくれ立った肌触りを気にしながら,算術の教科書の練習問題を解き始めた。「うん、うんそうか」と彼はとても素直だった。こんな素直な彼を私は今まで見たことがなかった。はやし立てる連中を歯をむき出して追いかける彼の姿はどこにもなかった。勉強を終えて帰ろうとした私たちに、老いた彼の父は、「こんなものでも使ってくれるか」と咳き込む声と共に部屋から出て来て,私の手の中に色の付いたきれいな豆電球を持たせてくれた。その時の老人の手のぬくもりを今でも覚えている。彼の家での学習は2~3回で終わったのであろうが,その後彼とは何となく気があうようになった。だからといって学校では、彼と親しい素振りはあまり見せなかった。というのは、「ニャーゴ」といわれて軽蔑されている彼と同一視されることを拒んだのである。少し卑怯だという後ろめたさを感じてはいたのだが。だからかも知れない。彼が夕刊の新聞配りをしているのを知って,学校から帰ると一緒に配り歩いたのである。そこは、学校仲間の少ない隣の町内であった。私はインクの真新しい匂いを快く感じながら新聞を折って,ギュッ,ギュッと鳴らし,郵便受けに入れていくのが私にとって楽しいことであった。そんなある日、配達を終えた彼は、一軒の餅菓子屋に入り、陳列ケースに並んでいたいなり寿司を二つ買った。先ほど新聞店に寄った時彼が今月一ヶ月の手当を主人から貰ったのは知っていた。経木に包まれたそれを彼は大事そうに両手に持つと,私を促して近くの八幡様の裏山に昇った。そこは、杉の木の切り株が丁度椅子のように並び静寂の広場であった。「これ食べようぜ。」と彼はしわくちゃで、こじんまりとしたいなり寿司の一つを爪の長い汚い手で私の手にのせた。彼は日頃一緒に配達してくれた私のためにこのいなり寿司を呉れたのだ.私は彼を見た.彼はもう一つのやつを、ぱくっと口に入れた。私も口の中に押し込んだ。油揚げの甘い汁の味が口の中に広がった。米の粒がひとつひとつ分かるような感じで舌の上を転がった。汗の味がした。人間のそれも働く人の味がした。人間の心の味がした。「ニャーゴ」という人間の本当の味がした。そして、口から心の中にどっしりとした人間の尊い息吹の味を伝えてくれた。切り株に腰掛けて二人で動かす口の向いている方向に西空があった。夕日の沈んだ西空のあの茜色は、今も私の心に焼き付いて離れない。そしてそれは彼の私に残してくれた限りない心の感動であった