教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出 10

日本の国は、戦争に負け、アメリカ・イギリス・ロシヤ・中国等の連合軍の統治することとなった。その統治者としてアメリカのマッカーサー将軍が来日し,占領軍の間接統治が行われた。軍国主義国家であった日本に対して政治改革や経済改革及び教育改革を要請し実…

遠い思い出 9

慌ただしく青い鳥児童劇団解散の事務を終え、指定されていた千葉県東葛飾郡福田村立福田中学校に行くことになった。 吉田校長先生の指示により昭和23年5月30日の夕方東京から柏を経て東武野田線に乗り案内の通り梅郷駅におりた。丁度太陽が姿を没しあたりが夕…

遠い思い出 8

児童劇団の活動は、思うようにいかなかった。稽古の場所の確保も侭ならず、小学校の空き部屋を借りたりしていた。劇団の児童たちも、平日は学校に登校しているのだから、稽古となれば、夜間か日曜日に限定される。それにスター的な児童ともなると学校のクラブ活…

遠い思い出 7

太平洋戦争が昭和20年8月15日にラジオからの天皇の放送で始めて戦争が終わったことを知った。戦争が終わったという安堵感と、これから日本はどうなっていくんだろうかという不安が心に残った。時が経つに従って、その不安は増大していった。空襲はなくなり死…

遠い思い出6

東京の中心地は3月10日の大空襲で一面焼け野原になってしまった。 その当時私は、中学4年生で,相変わらず日本無線という軍需工場に行っていた。 行っていたといっても,殆ど仕事もなく、工場の外の陽のたまり場で数人の友達とこれ からの自分たちの生き方を…

遠い思い出 5

中島飛行機の工場を去って新たに学徒動員で行くことになった日本無線株式会社は 中央線の吉祥寺で降りて25分余を歩く三鷹市の新川にあった。前の中島飛行機工場と違って工場の周りは櫟林に囲まれた静かな環境の中にあった。仕事も私が担当したのは、中型無線…

遠い思い出 4

学徒動員は,中学校の学舎を離れて、直接戦争の兵器を作る工場に毎日出勤したのである。それは、一般の工場の工員と同じ勤務であった。朝、工場へ出勤すると,私は飛行機のエンジンを製作する工場に急いだ。点呼が終わると,今日の仕事の段取りが有り、仕事…

遠い思い出 3

小学校を卒業して新しい中学校に入学した。その中学校は自分の家から歩いて行けた。新しい中学校というのは、新設の中学校で、平屋立ての木の香の匂う校舎が雑木林の中に並んでいた。そこで私は4年間を過ごした。と言ってもその4年間は、唯勉強をする4年間 で…

遠い思い出 2

わたしの入った小学校は東京の郊外の静かな住宅地にあった入学した時の私は,内気で人見知りをする子どもであった.それで、学校の行き帰りの道で上級性にいじめられることもあった。でも,休まず通学していたのは,何か学校におもしろいことがあったのであろう…

遠き思い出 1

「私が小学生の五年生と言えば、昭和12年に起きた蘆溝橋事件後日本が中国との戦いに本格的にのめり込んでいき、ついには日米開戦となる昭和16年の2年前の昭和14年の頃である。その頃日本の社会は、日中戦争に加えて、米・英国との摩擦も多く、忍び寄る大戦の恐…

私のこと

歳老いてきたことを自覚することが多くなった。 あたまの中では、歳老いてきたと思っていないのだが 足腰が云うことを効かなくなった。 足が前に出ない。着地する足が不安定だ。 この間、常磐線に乗車した時、空いてはいたが 座席は満杯であり、吊り革につか…

世 相 無 題

街は、動いていない。 行き交う人々は多い、みな無言である。 まっすぐ正面を向いて歩いていく。 行き交う人を見ることもない。 たまに私と眼があっても無表情である。 柏駅頭で金曜日には、政治団体だろうか 原発反対の人々がたむろし、ちらしなど配ってい…

よろしくお願いします。

教育支援三アイの会の木内です。これから教育や活動についてのブログを書いていこうと思います。よろしくお願いします。