教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 前理事長の公式ブログ

遠い思い出 7

太平洋戦争が昭和20年8月15日にラジオからの天皇の放送で始めて戦争が終わったことを知った。戦争が終わったという安堵感と、これから日本はどうなっていくんだろうかという不安が心に残った。時が経つに従って、その不安は増大していった。空襲はなくなり死ぬ心配はなくなったが,日本全土は,各都市が空襲に遭い,焼け野原となっていた。家を無くした人、家族を失った人と日本の国民は何らかの被害を受けていた。それに,占領軍に降伏した日本の兵隊達が,外地から帰ってきた。何百万という軍人だけでなく、

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遠い思い出6

東京の中心地は3月10日の大空襲で一面焼け野原になってしまった。
その当時私は、中学4年生で,相変わらず日本無線という軍需工場に行っていた。
行っていたといっても,殆ど仕事もなく、工場の外の陽のたまり場で数人の友達とこれ からの自分たちの生き方を話し合う日々であった。
私は4年生から大学を受験して合格しており4月からその大学に行くこととなってい た。

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遠い思い出 5


中島飛行機の工場を去って新たに学徒動員で行くことになった日本無線株式会社は 中央線の吉祥寺で降りて25分余を歩く三鷹市の新川にあった。前の中島飛行機工場と違って工場の周りは櫟林に囲まれた静かな環境の中にあった。仕事も私が担当したのは、中型無線機の配線のハンダ付けであった。聞くところによればこの無線機は、電波探知機とよばれ、その当時(昭和19年)太平洋戦争も日本の敗戦が続き、太平洋のサイパン島もアメリカに占領されB29という大型爆撃機が日本の都市を襲い爆弾や焼夷弾を落とすようになっていた。

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遠い思い出 4

学徒動員は,中学校の学舎を離れて、直接戦争の兵器を作る工場に毎日出勤したのである。それは、一般の工場の工員と同じ勤務であった。朝、工場へ出勤すると,私は飛行機のエンジンを製作する工場に急いだ。点呼が終わると,今日の仕事の段取りが有り、仕事に取りかかるのである。工場の中央に大きな炉ガ有り、溶かされたアルミニュムを大きな柄杓でくみ出しエンジンの鋳型に流し入れるのである。幾つかのエンジンの鋳型にアルミニュームを流し入れた後冷却し,

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遠い思い出 3

小学校を卒業して新しい中学校に入学した。その中学校は自分の家から歩いて行けた。新しい中学校というのは、新設の中学校で、平屋立ての木の香の匂う校舎が雑木林の中に並んでいた。そこで私は4年間を過ごした。と言ってもその4年間は、唯勉強をする4年間 ではなかった。別の言葉で言えば、波瀾万丈の時でもあった。
でも小学校で常に緊張の中で過ごしていた時と比べて、自分のことも考えられ、学習にも
力を入れられる余裕ができた。
1年生だけの中学校は、

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遠い思い出 2

わたしの入った小学校は東京の郊外の静かな住宅地にあった
入学した時の私は,内気で人見知りをする子どもであった.それで、学校の行き帰りの道で上級性にいじめられることもあった。でも,休まず通学していたのは,何か学校におもしろいことがあったのであろうが,今思い出せばクラスの友達が良かったのではないだろうか。
3年生のころになると,クラスの友達とも仲良くなり,学校か゛終わるとみんなで遊んだ。
その一つに相撲があった。学校の近く

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遠き思い出 1

「私が小学生の五年生と言えば、昭和12年に起きた蘆溝橋事件後日本が中国との戦いに本格的にのめり込んでいき、ついには日米開戦となる昭和16年の2年前の昭和14年の頃である。その頃日本の社会は、日中戦争に加えて、米・英国との摩擦も多く、忍び寄る大戦の恐怖におののいていた。しかし、五年生の私は、そのような大人の苦慮を感じることもなく学校生活を送っていた。日常の生活の中では、穴の空いた運動靴を買い換えるのに苦労した事ぐらいである。その頃私の学級に「ニャーゴ」と呼ばれていた同級生がいた。爪でひっかくから猫のようだ。

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