教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出 10

日本の国は、戦争に負け、アメリカ・イギリス・ロシヤ・中国等の連合軍の統治することとなった。その統治者としてアメリカのマッカーサー将軍が来日し,占領軍の間接統治が行われた。軍国主義国家であった日本に対して政治改革や経済改革及び教育改革を要請し実施させた。特に教育改革では、義務教育について今まで6年間であったが3年延長し9年間にするよう指示されたのである。それで新制の中学校が出現したのである。

日本全国の市町村に義務教育の新制中学校が出現したのである。校舎の設置もさることながら教える教師の採用に自治体は,困窮し,中学校の教員探しに大童になった。私が新制中学校の教師になったのは、そのような社会状勢があったからである。日本の社会の急激な変化の中で私は,学校へ行くよりも変わりゆく社会の中で,生きていくことを決めたのである。そのような状勢が身の廻りに溢れていた。終戦後の街角は、飢えに苦しむ大人達、空襲の災害で焼け野原になつた土地に家を失った人々が住む掘っ立て小屋の人々,それさえもなく道端に寝泊まりする人達。特に空襲で親を失った浮浪児が通りすぎる人に食をねだる姿があちこちにあった。その中で今私は何を為すべきか思い悩んだ。そして放浪した。その中で得たのが,自分が自身を表現できる演劇であった。

そしてその演劇から教師の道に追い込まれたのである。私は,担任であった松浦嘉一教授に休学することを願い、福田中学校へ行ったのである。演劇が出来るという希望と食っていける職を得たという確かな生き方に満足しての行動であった。だから福田中学校での1年間は1年生の担任であったが、ただ教科を教えるだけの教師であった。宿直室を常直として使わさせて戴き,食事その他で校長住宅に住んでいた吉田校長には,お世話になった。又一緒に 福田中学校に就職した根本隆さんとの交流は、かけがえのない1年だった。彼は、理工科系の大学出身であったが私との公私に亘る語り合いや泊まり込んでの文学論争で彼は私以上の文学通になったのである。又中学校の校舎はなく小学校の校舎に間借りをしながら教育を進めてきたのであるがその小学校の教師で私より1年先に教師となっていた古谷武雄さんとの交流も忘れることは出来ない。当時彼は6年生の担任で,熱血溢れる教師であった。ある時,彼の教室前を通ると「お前達はなぜこのようなことをしたのか。これは、お前達を教えている俺が悪い。だからこの悪い俺のほほをなぐれ」と大声でどなっていた。「先生ごめんなさい」と一人の子が教師のほほを叩いた。「そんな弱い力ではだめだ」 「もっと強く叩け」とどなった。「ごめんなさい」「ごめんなさい」と泣きながら子どもたちは 教師のほほを叩いた。教師と子どもの一体の行為に私は感動を覚えた。彼との交流が始まった。教育理念、ペスタロッチの教育論。長田新の教師論様々な角度で新生教育のありかたを論議しあった。そこから見えて来たことは、彼は、師範学校卒であるが,旧制の水戸高等学校へ行きたかったらしい。しかし、家庭の事情で叶わなかったようだ。彼との教育に関する議論は,少しの休み時間でも階段の隅で繰り返された。彼に頼まれて学級歌を作ったことを覚えている。
あっという間の1年だった。教育という人想う仕事を忘れてさまよった1年だった。

遠い思い出 9

  慌ただしく青い鳥児童劇団解散の事務を終え、指定されていた千葉県東葛飾郡福田村立福田中学校に行くことになった。 吉田校長先生の指示により昭和23年5月30日の夕方東京から柏を経て東武野田線に乗り案内の通り梅郷駅におりた。丁度太陽が姿を没しあたりが夕闇に包まれていた。駅前の雑貨店に寄り福田中学校までの道のりを聞くと線路を渡ってまっすぐに行けばいけると老婆が簡単に教える。その通りに行くと直ぐさま両脇を取り囲んだ杉並木の中を歩むこととなった。あいにくの闇夜で僅かに前方に見える星を頼りに歩み始めた。脇の切り立った杉並木林は

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遠い思い出 8

児童劇団の活動は、思うようにいかなかった。稽古の場所の確保も侭ならず、小学校の空き部屋を借りたりしていた。劇団の児童たちも、平日は学校に登校しているのだから、稽古となれば、夜間か日曜日に限定される。それにスター的な児童ともなると学校のクラブ活動で活躍し、他の芸能団体にも入っている。劇団員の確保が困難にもなってきていた。
そこへ野田市の小中学校の児童生徒への公演が終わった後の一言「学校では、劇が出来るよ」という吉田校長の一言が強く心に響いた。当時義務教育の小中学校は、昭和20年8月15日に終戦を迎え9月2日日本政府は米艦ミズリー号船上で降伏文書に調印した。

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遠い思い出 7

太平洋戦争が昭和20年8月15日にラジオからの天皇の放送で始めて戦争が終わったことを知った。戦争が終わったという安堵感と、これから日本はどうなっていくんだろうかという不安が心に残った。時が経つに従って、その不安は増大していった。空襲はなくなり死ぬ心配はなくなったが,日本全土は,各都市が空襲に遭い,焼け野原となっていた。家を無くした人、家族を失った人と日本の国民は何らかの被害を受けていた。それに,占領軍に降伏した日本の兵隊達が,外地から帰ってきた。何百万という軍人だけでなく、

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遠い思い出6

東京の中心地は3月10日の大空襲で一面焼け野原になってしまった。
その当時私は、中学4年生で,相変わらず日本無線という軍需工場に行っていた。
行っていたといっても,殆ど仕事もなく、工場の外の陽のたまり場で数人の友達とこれ からの自分たちの生き方を話し合う日々であった。
私は4年生から大学を受験して合格しており4月からその大学に行くこととなってい た。

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遠い思い出 5


中島飛行機の工場を去って新たに学徒動員で行くことになった日本無線株式会社は 中央線の吉祥寺で降りて25分余を歩く三鷹市の新川にあった。前の中島飛行機工場と違って工場の周りは櫟林に囲まれた静かな環境の中にあった。仕事も私が担当したのは、中型無線機の配線のハンダ付けであった。聞くところによればこの無線機は、電波探知機とよばれ、その当時(昭和19年)太平洋戦争も日本の敗戦が続き、太平洋のサイパン島もアメリカに占領されB29という大型爆撃機が日本の都市を襲い爆弾や焼夷弾を落とすようになっていた。

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遠い思い出 4

学徒動員は,中学校の学舎を離れて、直接戦争の兵器を作る工場に毎日出勤したのである。それは、一般の工場の工員と同じ勤務であった。朝、工場へ出勤すると,私は飛行機のエンジンを製作する工場に急いだ。点呼が終わると,今日の仕事の段取りが有り、仕事に取りかかるのである。工場の中央に大きな炉ガ有り、溶かされたアルミニュムを大きな柄杓でくみ出しエンジンの鋳型に流し入れるのである。幾つかのエンジンの鋳型にアルミニュームを流し入れた後冷却し,

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