教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出 16

当時の鎌ヶ谷村は、農家が多く、農村地区であり、特に梨の名産地でもあって生活が農業主体に行われていた。そのためか、長期欠席の生徒も多く、私か゛学級を受け持った時は、その学級に4名程の長欠生徒がいた。4月当初にその生徒の所を訪問しようと、クラスの生徒に「ああ、その生徒ならば毎日勝高のまえを通って仕事にいっているよ」と言う.彼等は乳人前の仕事人なのだ。社会人なのだ。そのこともあるのか、鎌ヶ谷中学校の評判は良くない。だからか、小学校を卒業すると有識者の子は船橋の中学校へ越境入学をする。

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遠い思い出 15

深山勇とは、卒業後の思い出がある。卒業から数年経ったある日、彼から電話がかかって来てお邪魔したいと言う.家に来て早々に「おれ、北海道の彼女と結婚するんだ。お祝いに品物をくれないか」と言う。「何が欲しいんだ」「生活用品でいいんだ」という。野田市の金物屋に行って鍋・ヤカンなど家庭用品を買ったが,それほど彼ははっきりしていて個性の強い一人であった。その後彼は紆余曲折があったが、今新たに福祉事業を立ち上げて奮闘している。

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遠い思い出 14

    私は、この生徒のためにも彼等を差別する教育,彼等を排除する学校集団があってはならないと思い,機会ある毎に会議などで発言した.特に知能検査でその子たちをクラス分けしたと公言した教頭には,知能検査が万能なのか,知能だけで教育に差別があって良いのかと食って掛かり大声で怒鳴られたりもした。しかし、私の言い分が通ったのか2学期からこの能力別学級は解体して適正な学級集団が成立した。そしてこの生徒たちとは、ばらばらになった。しかし、短期間だったけれど彼等から教わったことは多かった。これからの私の教育実践にどれだけ役だったことか。ここから一年半普通学級の担任として又社会科の教師としてこの学年の生徒たちと学習をしてきた。

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遠い思い出 13


Kは同級生との争いはしょっちゅうだった。ある日、喧嘩の果てに教室の窓ガラスを蹴破って飛び出した。私は家まで追いかけた.三キロはあっただろうか。彼の後を追って彼の家に入ったところ、彼は母親といた。「どうした」と言って近づくと彼は、台所から包丁を持ってきて私にに突きつけた。今考えてみれば、教師に捕まえられれば、ひどい目にあうという経験があるのだ.そばに来た母親が「うちの子は、かっとすると何をするか分からない、先生逃げて!」と泣き声をあげた。私は勢いのあまり「やるならやれ!」と彼の前に身体を突き出した。

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遠い思い出 12

    追い出されたということなのか。何か割り切れぬ気持ちはあったが,新たなる道への期待もあって鎌ヶ谷なる土地に思いをはせた。鎌ヶ谷中学校を見ようと4月の年度始めの休業日に根本隆氏を誘って自転車で住んでいた福田から松戸を通って鎌ヶ谷へ行った。東武野田線新京成電鉄の交差する所にある鎌ヶ谷中学校は,平屋建ての古い木造校舎であった。
この鎌ヶ谷中学校の校長は私が教師になるきっかけを作ってくれた吉田俊夫氏であった。
吉田校長の紹介で下宿先も決まり中途半端な赴任となったが4月16日一人で鎌ヶ谷中学校へ赴任した。職員室の席に座るやいなや、根本教頭が脇に来て「やあ、今日からあんたは2年生のクラス担任だ。2年生は今年か

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遠い思い出 11


教師として福田中学校へ勤務していた年の暮れに旧制の東京高等学校を休学していた私に担任の松浦嘉一教授から封書がきた。教育改革で教育制度が変わる。現在の官立大学が新生大学になり旧制の高等学校は廃止になることになった。来年は今の高校に来て卒業し新生大学に行くようにという気遣いの文面であった。松浦嘉一先生は、夏目漱石の門弟で作家久米浩の著書破船にも出てくる人である。休日に松浦先生宅

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遠い思い出 10

日本の国は、戦争に負け、アメリカ・イギリス・ロシヤ・中国等の連合軍の統治することとなった。その統治者としてアメリカのマッカーサー将軍が来日し,占領軍の間接統治が行われた。軍国主義国家であった日本に対して政治改革や経済改革及び教育改革を要請し実施させた。特に教育改革では、義務教育について今まで6年間であったが3年延長し9年間にするよう指示されたのである。それで新制の中学校が出現したのである。

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