教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出 21

子どもとの学校生活の中で、相変わらず私は、子どもらに注意をされ、意見も言われた。それは、彼等を私と同じ人間として思うからだ。悦子、美千代、美智子などの注意は何時もだった。乱暴者としていわれていた高橋利昌も、よく私に食いついてきた。生きることに真剣さがある利昌と言い合った。彼は、卒業して間もなく死んだ。喧嘩から刺されたのだ。葬儀に出て、泣いた。中学校の2年半学校に来ていても、口をきかなかった秋山利郎が3年の後半ホームルームで前に出て司会をし発言した。私の目から涙がしたたり落ちた。飯塚勝将達学級のみんなの努力だ。それが稔ったのだ。3年間受け持った彼等は卒業し去って行った。卒業しても一緒に学習しようと集まって始めた「だるま会」は文集を出しつつ続けていった。「やまびこ学校」にも等しい生活運動が続けられていったのである。


昭和31年彼等が卒業して新たな年度を迎え教育実践をと思っている時、突然校長に呼ばれ、教員組合の東葛支部の役員が来て,君を書記次長候補として推薦するので話しておいてくれということを伝えられた。早速富澤校長の所にそのことを伝えると‘言って来たか’やれよ。」と簡単に言う。富澤校長も関与して出来上がった話のようだ。半専従という形で鎌ヶ谷中学校に半分勤務し後の半分は柏の教育会館の組合事務所に勤務することとなった。書記長は関根明信氏で幅広い知識を持ち確とした人生指標の持ち主であった。だから氏から教わることは多かった。これからの1年は多くの人と出会い,あの若い情熱に燃えた行動を思い出す事が多いし、是が今後の私の精神的面でのプラスになっているように思える。
組合での1年間の活動を終えて,現場へ戻ることとなった。あの鎌ヶ谷中学校での6年間は振り返ってみると稔りある年月であった。去り難くも思った。赴任した風早中学校は鎌ヶ谷の隣の町である。風早中学校では、教頭の仕事をして貰うと教育委員会からいわれた。当時教頭職は教諭をもって当てるという規則になっており,教頭職は正式な任命ではなかった。だから各市町村の教育委員会で教頭に当てるという辞令を出してその職を受け持たせていたのである。一年だけの任命であった。教頭となってしまって学級担任として生徒と接触することがなくなり淋しい気がした。でも生徒会活動を重視し、その活動を盛んにするよう努力し「緑陰子ども会」などを組織して地域を巡回したことを覚えている。
一緒に赴任した加美校長は,定年まであと1年の年齢であったが,教頭初任の私に、「やって学べ」と学校経営の基本を学ばせて下さった。それだけにずいぶんと苦労もしたがそれが以後よい糧になっている。

遠い思い出 20

教師の中には、私以上に教育実践の中で悩みを持つ人もいた。教育への情熱を傾けて止まない人もいた。東葛5000人の教師の中で様々な人に出会った。当時の組合には管理職も入っていて,安井新治校長や篠宮善一校長それに関根明信校長などと共に行動できたことは,様々な面で私を高めてくれた。又民間の労働組合との連携の地区労働組合の連合体(地区労)があって,柏、野田、流山、我孫子等の民間会社の労働者と交流もあり,若い労働者の熱意と気概

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遠い思い出 19

鎌ヶ谷中学校は、当時は農村といわれる地区で、農家の事情もあり、長期欠席の生徒も多く私が学級を受け持っていた時は、その在籍に三~四名の長期欠席者がいた。学級を受け持って暫くして、この長欠者の所を訪問しようと思い、生徒に聞くと生徒は{ああ、その子なら毎日学校の前を通って仕事に行っているよ」と言う。彼等は一人前の仕事人なのだ。社会人なのだ。そのこともあってか,地域での中学校の評判はよくない。だからか小学校を卒業すると,有識者の子は船橋の公立中学校へ越境入学を

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遠い思い出18

相変わらず、私は、生徒たちに注意や意見を言われることが多かった。私はそれを喜んで聞き意見を言った。それは彼等と私は同じ人間であり、同じに真剣に生きて行こうとする仲間であるのだ。悦子・美千代・美智子などの注意はいつもだった。乱暴者と言われた高橋利昌は卒業して間もなく事故で死んだ。喧嘩から相手にナイフで刺されたのだ。よい男だった。私の言うことは、

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遠い思い出 17

昭和29年当時日本教職員組合が、日本の教育を再建し新たな教育活動を推進する手段として、教育実践発表の場を設け各県の代表を集めて全国教育研究集会を実施していた。東葛南部地区でも、教育実践に関して、研修部会を設け活動していた。当時浦安、行徳、南行徳地区の中学校生徒の実態は、長期欠席生徒の数が多く、大きな教育課題となっていた。(特に生徒に依る魚介類の行商問題)その実態を探求するための研究斑が設置され、各中学校から委員を選出して1年間実態把握と対策について協議してきた。私もその委員として活動していた。そしてそれをまとめ、

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遠い思い出 16

当時の鎌ヶ谷村は、農家が多く、農村地区であり、特に梨の名産地でもあって生活が農業主体に行われていた。そのためか、長期欠席の生徒も多く、私か゛学級を受け持った時は、その学級に4名程の長欠生徒がいた。4月当初にその生徒の所を訪問しようと、クラスの生徒に「ああ、その生徒ならば毎日勝高のまえを通って仕事にいっているよ」と言う.彼等は乳人前の仕事人なのだ。社会人なのだ。そのこともあるのか、鎌ヶ谷中学校の評判は良くない。だからか、小学校を卒業すると有識者の子は船橋の中学校へ越境入学をする。

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遠い思い出 15

深山勇とは、卒業後の思い出がある。卒業から数年経ったある日、彼から電話がかかって来てお邪魔したいと言う.家に来て早々に「おれ、北海道の彼女と結婚するんだ。お祝いに品物をくれないか」と言う。「何が欲しいんだ」「生活用品でいいんだ」という。野田市の金物屋に行って鍋・ヤカンなど家庭用品を買ったが,それほど彼ははっきりしていて個性の強い一人であった。その後彼は紆余曲折があったが、今新たに福祉事業を立ち上げて奮闘している。

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