教育支援 blog

NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出 9

  慌ただしく青い鳥児童劇団解散の事務を終え、指定されていた千葉県東葛飾郡福田村立福田中学校に行くことになった。 吉田校長先生の指示により昭和23年5月30日の夕方東京から柏を経て東武野田線に乗り案内の通り梅郷駅におりた。丁度太陽が姿を没しあたりが夕闇に包まれていた。駅前の雑貨店に寄り福田中学校までの道のりを聞くと線路を渡ってまっすぐに行けばいけると老婆が簡単に教える。その通りに行くと直ぐさま両脇を取り囲んだ杉並木の中を歩むこととなった。あいにくの闇夜で僅かに前方に見える星を頼りに歩み始めた。脇の切り立った杉並木林は、いくら行っても果てしない。道を間違えたのではないかと思った時ぜんめんが開け道の両面が一面田んぼになっていた。やっと福田村に着いたのである。しばらく蛇行している細道を行くと大通りにぶつかった。斜め横に明かりのついた店があった。その後お世話になるよろず店である。そこで福田中学校への道を教えて貰いやっと中学校の小使い室に到着したのである。「待っていましたよ」と年取った女性の小使いさんは、私を宿直室へ案内してくれた。やっと着いたのだという安堵感と疲労で小使いさんの敷いてくれた布団にくるまりあっという間に寐てしまった。
翌日31日から教師としての仕事に従事したのである。
考えて見れば旧制の中学校にに入学してその年の12月に太平洋戦争が勃発し戦時下の社会ではあったが最初の1年間は毎日学校へ登校し正規の授業を受けてきたし、学友とも交流を重ねてきたのだが、戦争が激しくなり、働き手の男子が兵隊に行くことになり、働き手のなくなった農家の手伝いをと政府は、中学生以上の学生に学徒動員の命令を出し学業を投げ打って戦争の為に働けということとなったのである。そのため2年生の最初は週に何日か東京郊外の農家に行き農作業を手伝ったのである。収穫期のさつまいもの掘り出しなど思い出される。3年になった時は、戦局も思わしくなくすべての国民は、国のために命を投げ出せということで16歳の中学生も学業を止めて戦う為になる仕事をせよと言うことだ。そして航空機をつくる工場へかり出されたのである。だから入学した中学校もしっかりした学習をしたのは4年間の中半分の2年間だけであった。そして、旧制の高等学校へ入学したのは、終戦の年の4月で高校の校舎は4月16日の東京北東部の空襲で廃墟となったのである。そして終戦、新しい国づくりは始まったが、学ぶ校舎もなく、焼け残った東京の大学や研究所の建物を借りて授業も始まったが、この戦争ですべての都市が焼き払われ済むところもなく、食う物もなく着る物もなく生活をしている国民が大部分であった。
そこで私は、劇団をつくり学業よりも、自己の生きがいに邁進していたのである。だから教師になったといっても、教師になる勉強もしていないし、資格も持っていなかった。

遠い思い出 8

児童劇団の活動は、思うようにいかなかった。稽古の場所の確保も侭ならず、小学校の空き部屋を借りたりしていた。劇団の児童たちも、平日は学校に登校しているのだから、稽古となれば、夜間か日曜日に限定される。それにスター的な児童ともなると学校のクラブ活動で活躍し、他の芸能団体にも入っている。劇団員の確保が困難にもなってきていた。
そこへ野田市の小中学校の児童生徒への公演が終わった後の一言「学校では、劇が出来るよ」という吉田校長の一言が強く心に響いた。当時義務教育の小中学校は、昭和20年8月15日に終戦を迎え9月2日日本政府は米艦ミズリー号船上で降伏文書に調印した。

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遠い思い出 7

太平洋戦争が昭和20年8月15日にラジオからの天皇の放送で始めて戦争が終わったことを知った。戦争が終わったという安堵感と、これから日本はどうなっていくんだろうかという不安が心に残った。時が経つに従って、その不安は増大していった。空襲はなくなり死ぬ心配はなくなったが,日本全土は,各都市が空襲に遭い,焼け野原となっていた。家を無くした人、家族を失った人と日本の国民は何らかの被害を受けていた。それに,占領軍に降伏した日本の兵隊達が,外地から帰ってきた。何百万という軍人だけでなく、

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遠い思い出6

東京の中心地は3月10日の大空襲で一面焼け野原になってしまった。
その当時私は、中学4年生で,相変わらず日本無線という軍需工場に行っていた。
行っていたといっても,殆ど仕事もなく、工場の外の陽のたまり場で数人の友達とこれ からの自分たちの生き方を話し合う日々であった。
私は4年生から大学を受験して合格しており4月からその大学に行くこととなってい た。

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遠い思い出 5


中島飛行機の工場を去って新たに学徒動員で行くことになった日本無線株式会社は 中央線の吉祥寺で降りて25分余を歩く三鷹市の新川にあった。前の中島飛行機工場と違って工場の周りは櫟林に囲まれた静かな環境の中にあった。仕事も私が担当したのは、中型無線機の配線のハンダ付けであった。聞くところによればこの無線機は、電波探知機とよばれ、その当時(昭和19年)太平洋戦争も日本の敗戦が続き、太平洋のサイパン島もアメリカに占領されB29という大型爆撃機が日本の都市を襲い爆弾や焼夷弾を落とすようになっていた。

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遠い思い出 4

学徒動員は,中学校の学舎を離れて、直接戦争の兵器を作る工場に毎日出勤したのである。それは、一般の工場の工員と同じ勤務であった。朝、工場へ出勤すると,私は飛行機のエンジンを製作する工場に急いだ。点呼が終わると,今日の仕事の段取りが有り、仕事に取りかかるのである。工場の中央に大きな炉ガ有り、溶かされたアルミニュムを大きな柄杓でくみ出しエンジンの鋳型に流し入れるのである。幾つかのエンジンの鋳型にアルミニュームを流し入れた後冷却し,

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遠い思い出 3

小学校を卒業して新しい中学校に入学した。その中学校は自分の家から歩いて行けた。新しい中学校というのは、新設の中学校で、平屋立ての木の香の匂う校舎が雑木林の中に並んでいた。そこで私は4年間を過ごした。と言ってもその4年間は、唯勉強をする4年間 ではなかった。別の言葉で言えば、波瀾万丈の時でもあった。
でも小学校で常に緊張の中で過ごしていた時と比べて、自分のことも考えられ、学習にも
力を入れられる余裕ができた。
1年生だけの中学校は、

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