教育支援 blog

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NPO法人教育支援三アイの会 木内 昭公式ブログ

遠い思い出6

東京の中心地は3月10日の大空襲で一面焼け野原になってしまった。
その当時私は、中学4年生で,相変わらず日本無線という軍需工場に行っていた。
行っていたといっても,殆ど仕事もなく、工場の外の陽のたまり場で数人の友達とこれ からの自分たちの生き方を話し合う日々であった。
私は4年生から大学を受験して合格しており4月からその大学に行くこととなってい た。だが、その大学も4月16日の焼け残った東京の北部地区への空襲であとかたもな く焼き払われた。 中学校卒業は昭和16年の3月であるが,工場に動員されていて卒業 式に出た思い出を持っていない。 中学の同級生はみんな思い思いに散っていったので ある。私は,校舎が消失した大学からしばらくは自宅に待機していなさいとの連絡を受 け5月まで自宅にいた。 その後他の大学の校舎を借りて午前中は学習をし,午後は新た な潜航艇を作る亀有にあった日立工場にいくことになった。
そして8月15日の戦争が終わるという日を迎えたのである。
8月15日はとても暑い日であった。私は工場の仕事を休んで親友の小川君の家にいた。 この日は前日からラジオで12時に重大ニュースがあるから聞くようにとの放送が流れ ていた。 私と小川君は12時に小川君の家のテレビで「ただいまから,天皇陛下のお言 葉があります」ということで 甲高い声ではあるが,聞き取りにくいが戦争を止めると いう趣旨は伝わってきた。そのニュースを聞いた二人は無言で外に出た。近くの小学校 の校庭に行った。無言でいた。戦争に負けたのだという悔しさと,ああ良かったという 気持ちとが胸の中を交錯した。二人は無言でいた。熊蝉のジイーンという音が風も無い 灼熱の中で響きわたった。私の人生の大きく変化した1日であった。
もう,空襲はない,毎夜、電球に黒い布を巻いて,空襲に備えることもなくなった。
そして、日本は大きく変わろうとしていた。
その前に日本は,戦争に負けたという事実を目の当たりにした。占領軍が日本に入って きたのである。占領軍のもとで、日本人はこれからの生活を作らなければならなかった。 戦争をしてきたという事実は,平和になった今,目の当たりに見えて来た。
戦争を続けた結果は,先ず食料難にぶつかった。食べ物を求めて人々は右往左往した。
戦争孤児と呼ばれる幼児を含む子どもたちが街に溢れた。人々は,食うに追われた。
一人一人の日本人が生きることに夢中になった。私もその中で,生きることに専念した。 食料は、配給制で1日あたり米何合とこれだけでは、生きていけない分量の配給であっ た。だから,ヤミ市がはやった。そこへ行けば大体のものは買えた。だが高かった。
人々は,生きて行く為にあらゆることをした、米を農村に行って物物交換で買い求めそ れを高久売って設けるヤミ商人も出てきた。しかし、それで日本の経済がまわっていた とも云える。

遠い思い出 5


中島飛行機の工場を去って新たに学徒動員で行くことになった日本無線株式会社は 中央線の吉祥寺で降りて25分余を歩く三鷹市の新川にあった。前の中島飛行機工場と違って工場の周りは櫟林に囲まれた静かな環境の中にあった。仕事も私が担当したのは、中型無線機の配線のハンダ付けであった。聞くところによればこの無線機は、電波探知機とよばれ、その当時(昭和19年)太平洋戦争も日本の敗戦が続き、太平洋のサイパン島もアメリカに占領されB29という大型爆撃機が日本の都市を襲い爆弾や焼夷弾を落とすようになっていた。 そのアメリカのB29爆撃機が日本に来襲し日本の高射砲に打ち落とされた。その残骸の中からアメリカの最新の無線機が発見され、それをもとに日本でも製作するようなっていたのである。無線機のハンダ付けという中島飛行機と違って楽なそして静かな環境での勤労動員でいくらか戦争というこわさを忘れていた。しかし、工場からの行き帰りに空襲に遭い、道の側溝に身を隠したり、したものである。いくらかの余裕ができたからか、工場の休日の時は、家で学習する時もあり、又友達と遊び歩くこともあった。その1人に泉治典君がいた。彼も私を自宅に誘った。吉祥寺の清楚な邸宅であった。彼は、自分の部屋を持っていて、その部屋には、大きな勉強机があった。
その机の上に本が開かれており、覗いてみると、横文字が見える。泉君がそばにきたので「 難しい本を読んでいるんだね」というと、‘木内ね、それは、右から左に読むんだよ。ヘブライ語なんだ」といわれた。その勉強ぶりに、私は「よし、おれもやるぞ」という意欲をわかした。彼は又山に誘った。先ずは高尾山に行った。高尾山に登ったとき、山頂から五日市町方面を見ると丁度五日町はアメリカの爆撃機が空襲中で黒煙がもうもうとあがっていた。なんともさびしい景色であった。秩父連山の甲武信岳も登った覚えがある。
泉君のお陰で今でも、山登りの爽快さが忘れられず、たまにテレビで見る登山者の姿に懐かしさがこみ上げてくる時がある。
又、工場での休憩のひとときに学友のみんなで。これから日本はどうなるのかなど意見を交換したことも覚えている。友人の高野君がいった言葉の中に、「もう日本は駄目だと父が言っている。この戦争は負けだ」とこの言葉に皆は猛反発した。「日本は負けるはずがない」「日本は、神の国で絶対に負けない。必ず勝つ」といきり立った。でも高野君は、ひややかに皆を見て、神なんかいるものか。みんな間違っているよ。現に今日本軍はあちこちで負けているではないか。「今の状態で勝てるはずがない」と力説した。
その当時は、もう日本軍は南方戦線でアメリカ軍に追い詰められ、たくさんの戦死者を出して敗退していた。しかし、その事実をときの政府は、国民に知らすことなく、いつかは、挽回してくれると信じていた。しかし、南方の日本軍は、たくさんの兵隊が戦死する中で、太平洋の島サイパン島も占領されそこから爆撃機B29が日本の都市を爆撃するようになってきた。そして、昭和20年の3月9日の夜間から10日にわたり東京大空襲で東京の下町は火の海となり10万人からの人が死んだのである。

遠い思い出 4

学徒動員は,中学校の学舎を離れて、直接戦争の兵器を作る工場に毎日出勤したのである。それは、一般の工場の工員と同じ勤務であった。朝、工場へ出勤すると,私は飛行機のエンジンを製作する工場に急いだ。点呼が終わると,今日の仕事の段取りが有り、仕事に取りかかるのである。工場の中央に大きな炉ガ有り、溶かされたアルミニュムを大きな柄杓でくみ出しエンジンの鋳型に流し入れるのである。幾つかのエンジンの鋳型にアルミニュームを流し入れた後冷却し,一枚一枚鉄板を引き抜くのである。高熱の暑さの中の作業で汗はしたたり落ちて,皿に用意されて置かれている塩を口に入れての重労働であった。働くということの基本条件も知らぬまま,言われる通りの働きをしていた私達は、未だ15歳の少年であったが,真剣に働いた。途中で暑さに負けて,倒れ込む友達もいた。でも‘国のためという思いでがんばった。日曜日は工場は休みだった。それが楽しみでもあった。高橋巌君と出会ったのもその頃であったろうか。彼は、中野区の鍋屋横町近くに住んでいて,自宅は,衣装屋であったと覚えている。ある時、彼が家に来ないかと誘ってくれた。
探し当てて彼の家に上がった。2階の小部屋だった。学校のこと、工場でのことなど話し合ったのだろうがよく覚えていない。覚えているのは、彼の家の2階の小部屋で聞いたベートーベンの第五運命交響曲のレコード盤から流れ出たあのトーンのすごさ。
ダダダダダーンという響き。今まで聞いたことのない音律。家で聞いている音といえば
謡曲か、民謡か、童謡だ。心揺すぶる音律のあることとの出会いは、若かったわたしに取って忘れれぬひとときであった。夕暮れ過ぎて帰りかけた私に高橋君は、送っていくよと一緒にそとへ出た。中野駅までの道を何の話をしたのかは、覚えていない。でも彼と2往復したことは忘れていない。青春の時代の友情というものなのか。
酷暑の中での工場での労働は、数ヶ月で終わった。手塚昇校長は、この重労働の事実を知るや、直ちに中島飛行機工場に未成年の中学生にこのような過酷な労働を強いるのは、
許せないと強行に抗議したのである。当時は、軍人がえばっていた時代で、このよ抗議をしたら捕まってしまうという心配もあったのであろうがそれを押して抗議をした手塚昇校長の生徒を思う心には、今でも感激を覚えます。手塚校長の自分の進退を賭けた抗議に押されたのか。中島飛行機工場での学徒動員は中止となり、数ヶ月後に新たな学徒動員場所として、東京都三鷹市にある日本無線株式会社に決まり、いくこととなった。

遠い思い出 3

小学校を卒業して新しい中学校に入学した。その中学校は自分の家から歩いて行けた。新しい中学校というのは、新設の中学校で、平屋立ての木の香の匂う校舎が雑木林の中に並んでいた。そこで私は4年間を過ごした。と言ってもその4年間は、唯勉強をする4年間 ではなかった。別の言葉で言えば、波瀾万丈の時でもあった。
でも小学校で常に緊張の中で過ごしていた時と比べて、自分のことも考えられ、学習にも
力を入れられる余裕ができた。
1年生だけの中学校は、上級性がいないので、気分的には、解放される事が多く、又
教師も若い方が多かったので活気のある日々が続いた。 友達も増えていった。世田谷区から来ていた藤井君とは、下校の時駅までの道道一緒になった。彼は、いつも遅刻寸前に校門に入って来た。遅れることもしばしばで、遅れると罰として校庭を5周走らされた。何人かの遅刻者は、のんびりと走っていたが彼は違っていた。あごを突きだして,必死の形相で走り回った。その気概に私は感嘆した。それで彼に近寄り駅への道を同行した。彼は、何かに夢中になる気質をもっていると感じた。藝術家なんだと感じた。ある時一緒に駅まで帰る道で「僕の所へ遊びに来ないか」といわれた。 {行くよ」と答え,彼の家を尋ねた。
洋館の大きな家だった。女の人が出て来て,ピアノのある洋室に通された。何を話したかは覚えていない。きれいな洋装の女性が「輝明のお友達ですね。」「お友達になってあげて下さい」と言われた。彼の父親は外交官でヨーロッパの国に行っていたのだ。私の家の状況と極端に違っていた。
入学したその年は,昭和16年で、中国との戦争が長く続いており,多くの家では、父親や兄などが戦争に動員され,戦死した人々も多くなっていった。つまり、戦時色の濃い時代となっていた。その年の12月8日、いつもの通り、登校しようと準備をしていると、付けていたラジオの音楽が突然消えて,「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げますと甲高いアナウンサーの声が響いた。「陸海軍令部発表、帝国陸海軍は本8日未明南太平洋上において,米・英・蘭軍と戦争状態に入れり、繰り返し申し上げます
との発表が続いた。その後「海軍部隊は,本8日未明ハワイ真珠湾を攻撃し港内に於いて敵戦艦及び船舶何隻を撃沈したとの発表が続いた。「日本は,アメリカやイギリスと戦争を始めたのだ。そして、アメリカやイギリスの戦艦を沈めたのだという勝利に酔いしれたのだった。学校へ行くと,直ちに生徒は集められ,これから鬼畜米英を相手に戦争が始まったのだと告げられ,君たちも国のため,天皇のため戦いに行くのだといわれた。今までは、中国との戦いであったがこれからは、アメリカやイギリスまでも相手にして戦うのだという大変さよりも,あちこちへの日本兵の戦いの勝利に酔い、勝った,勝ったと踊り狂っていた。そして、中学2年になり1年生が入って来た。国は戦時色一色となり学業に専念することよりも,国のために中学校の生徒は何が出来るかと問われるようになった。そして2年生の途中から学徒勤労動員という名のもとに,主人が戦地に行っている農家の農作業の手伝いに行かされた。3年になる前まで学業の合間に農作業に狩り出されたのである。そして戦争の拡大が直に中学生のわれわれに襲いかかってきたのである。
「今の日本は学徒は学校で勉強している時ではない、戦地で命がけで戦っている兵士を思い、学業を投げ打って国のために働くべきだと言われた。そして私達3年生は,東京の田無町にある中島飛行機工場に学徒動員されたのである。日本国中の大学生、中学生が動労動員に狩り出されたのである。

遠い思い出 2

わたしの入った小学校は東京の郊外の静かな住宅地にあった
入学した時の私は,内気で人見知りをする子どもであった.それで、学校の行き帰りの道で上級性にいじめられることもあった。でも,休まず通学していたのは,何か学校におもしろいことがあったのであろうが,今思い出せばクラスの友達が良かったのではないだろうか。
3年生のころになると,クラスの友達とも仲良くなり,学校か゛終わるとみんなで遊んだ。
その一つに相撲があった。学校の近くに原っぱがあってそこに土俵をつくり,取組表なども作って競い合った。私は、機敏で動き回り勝つことが多かった。又放課後の学校の隅で三角野球もした。三角野球とは2塁を除いて1塁から3塁に走りホームにくるという野球の仕方だ。場所も小さくて済むし選手も少なくていい。打つのには、利き手に手ぬぐいを巻きそれで軟式のボールを打つのだ。そんな放課後の遊びの中でいつの間にか、私は、親分と呼ばれるようになって「親ギュース」という呼ばれ方をした。それは、その当時世界で有名なフランスのテニスの選手で「ギュース」という言う選手が日本に来て試合をしていた。とても強い選手で日本の選手は誰もが負けていた。その強いギュースと親分の名を掛けて「親ギュース」と呼ばれたのだ。5年生になると学年でも「親キュース」の評判が増してきた。私は5年生の学年の生徒の中心におかれていた。ある時同級生から6年生に言いがかりをつけられ呼び出されているといってきた。私は「よし分かった。やっつけてやる」といった。内心は困ったなあ、どうすればよいだろうかと案じたのだけれど、仕方が無い行こうと決心した。それで無ければ今までの「親ギュース」の名前は、何だ弱い奴なのだと軽蔑されるのだと思うと行くしか無い思った。そして6年生の悪と出会う場所を学校の音楽室の脇と決めてそこへ来いと告げた。なぜ学校の校庭の音楽室脇に連れて行ったかというと、そこは、職員室に近かったし、音楽室には、渡り廊下を通って女の子が行き来していたのだ。けんかになれば女の子は,必ず「先生、先生、けんかをしています」と職員室に駆け込む。それを知っていたからだ。6年生3人が来た。「何だ。えばるな。」との言い争いになり、けんかになった背の高い6年生が私を突き飛ばし馬乗りになりあたまを殴ってきた。馬乗りになった6年生は、私の顔目掛けて殴りかかってきた。その手が私の口にきた。私は、思い切ってその手の指に食いついた。必死で噛みついた。6年生は、その手を抜き取ろうとするが私は必死で噛み続けた。顔のあっちこっちを6年生は、もう一つの手で叩いた。ひっかいた。痛かったが必死で噛んでいる手を噛み続けた。上の6年生は泣き出した。「先生喧嘩しています」と女の子が職員室に駆け込んだ。先生が飛んできた。「又木内か、もう止めろと」先生はどなった。
それで又名前が挙がる。又みんなのためにけんかをするという状態だった。
6年生になっても近くの他の小学校の悪との争いもあり、この状態は続いた。
6年生も卒業間近になると卒業後について考える時になった。 当時は小学校卒業で仕事につくというのが常識であったが、私は、試験を受けて中学校へいくこととなった。そこで私は、中学校へ行く学友一人一人に「お前どこの中学校を受験するんだ」と聞いて廻った。そして、誰も受検しない中学校を選んで入学した。やっと「親ギュース」からはなれた。誰にも、親分と呼ばれ、喧嘩をすることもなくなった。
真面目に自分のことが考えられる時が来たように思われた。

遠き思い出 1

「私が小学生の五年生と言えば、昭和12年に起きた蘆溝橋事件後日本が中国との戦いに本格的にのめり込んでいき、ついには日米開戦となる昭和16年の2年前の昭和14年の頃である。その頃日本の社会は、日中戦争に加えて、米・英国との摩擦も多く、忍び寄る大戦の恐怖におののいていた。しかし、五年生の私は、そのような大人の苦慮を感じることもなく学校生活を送っていた。日常の生活の中では、穴の空いた運動靴を買い換えるのに苦労した事ぐらいである。その頃私の学級に「ニャーゴ」と呼ばれていた同級生がいた。爪でひっかくから猫のようだ。だから「ニャーゴ」だというのだ。粗末な服と、汚れた手足。同級生の中には、さも軽蔑したような態度をして「ニャーゴ、やーい」とはやし立てる奴もいた。そんな時彼は、歯をむき出し、追いかけた。彼が怒れば怒る程彼はみんなに馬鹿にされた。私は、義侠心からか、彼をかばうことも多かった。そんなこともあって、何となく彼と親しくなっていった。何時のことだったか、私は彼の家に行ったことがある。勉強を教えてくれという彼の頼みであったのであろうか。もう一人の級友を誘って行った。
間口の広い家に入ると、すぐに薄暗い部屋の中で豆電球にタングステンを入れて,封をする仕事をしている老人の横を通って、その隣の部屋に入った。その老人は背を曲げて,やせ細った腕を,せわしく動かし、ぜいぜいと肩で息をしていた。その淋しそうな横顔、その老人が彼の父であった。彼の4人の兄弟は奥にじっとひそんでいるようであった。私たちは、久し振りの客のようであった。机代わりのリンゴ箱のささくれ立った肌触りを気にしながら,算術の教科書の練習問題を解き始めた。「うん、うんそうか」と彼はとても素直だった。こんな素直な彼を私は今まで見たことがなかった。はやし立てる連中を歯をむき出して追いかける彼の姿はどこにもなかった。勉強を終えて帰ろうとした私たちに、老いた彼の父は、「こんなものでも使ってくれるか」と咳き込む声と共に部屋から出て来て,私の手の中に色の付いたきれいな豆電球を持たせてくれた。その時の老人の手のぬくもりを今でも覚えている。彼の家での学習は2~3回で終わったのであろうが,その後彼とは何となく気があうようになった。だからといって学校では、彼と親しい素振りはあまり見せなかった。というのは、「ニャーゴ」といわれて軽蔑されている彼と同一視されることを拒んだのである。少し卑怯だという後ろめたさを感じてはいたのだが。だからかも知れない。彼が夕刊の新聞配りをしているのを知って,学校から帰ると一緒に配り歩いたのである。そこは、学校仲間の少ない隣の町内であった。私はインクの真新しい匂いを快く感じながら新聞を折って,ギュッ,ギュッと鳴らし,郵便受けに入れていくのが私にとって楽しいことであった。そんなある日、配達を終えた彼は、一軒の餅菓子屋に入り、陳列ケースに並んでいたいなり寿司を二つ買った。先ほど新聞店に寄った時彼が今月一ヶ月の手当を主人から貰ったのは知っていた。経木に包まれたそれを彼は大事そうに両手に持つと,私を促して近くの八幡様の裏山に昇った。そこは、杉の木の切り株が丁度椅子のように並び静寂の広場であった。「これ食べようぜ。」と彼はしわくちゃで、こじんまりとしたいなり寿司の一つを爪の長い汚い手で私の手にのせた。彼は日頃一緒に配達してくれた私のためにこのいなり寿司を呉れたのだ.私は彼を見た.彼はもう一つのやつを、ぱくっと口に入れた。私も口の中に押し込んだ。油揚げの甘い汁の味が口の中に広がった。米の粒がひとつひとつ分かるような感じで舌の上を転がった。汗の味がした。人間のそれも働く人の味がした。人間の心の味がした。「ニャーゴ」という人間の本当の味がした。そして、口から心の中にどっしりとした人間の尊い息吹の味を伝えてくれた。切り株に腰掛けて二人で動かす口の向いている方向に西空があった。夕日の沈んだ西空のあの茜色は、今も私の心に焼き付いて離れない。そしてそれは彼の私に残してくれた限りない心の感動であった

私のこと

老いてきたことを自覚することが多くなった。

あたまの中では、歳老いてきたと思っていないのだが

足腰が云うことを効かなくなった。

足が前に出ない。着地する足が不安定だ。

この間、常磐線に乗車した時、空いてはいたが

座席は満杯であり、吊り革につかまっていたら、

前の席に座っていた若い女性が、黙って席を空けてくれた。

自分自身もそんなに老いぼれていないと思っていたのだが、

どうも他人から見ると相当老いぼれているように見えるようだ。

そういえば、東武線の野田市駅で地下通路からホームへ出る

階段を昇っていたら、「お手伝いしましょうか?」と声を掛けてきた

若い男性がいた。「ありがとう」とその行為に敬意を表したが

年寄りと思われているのだなあと哀感を覚えた。

続きもある。急に現金が必要になり、近くのコンビニのATMに寄り

慣れない手続きで操作をし何とか、用を達したのだが、駅から通路を

通って階段を昇っていた時、後ろから来た女性に「振り込め詐欺

あっていないでしょうね」と尋ねられた。「いや、大丈夫です」と

言ったが、そういえば、先ほどATMに立ち寄ったとき後ろで順番を

待っていた女性のようだった。年寄りの振り込み被害と思われる

体たらくなのだ。

今日もそう思われないようにと腰を伸ばし、上を向いて玄関の戸を

開けて出勤しよう。